2023-07-10
1時間42分の戦闘で沈没した戦艦大和の戦死3056名 輸送船富山丸の魚雷沈没あっという間の2個旅団消滅
2023-07-20
<ノモンハン捕虜帰還兵軍法会議> 自決未遂で重営倉3日の上等兵、敵前逃亡で禁錮2年10カ月の戦闘機曹長
2023-08-22
<ノモンハン捕虜帰還将校2名> 日本軍の自決システム──撃墜されて捕虜 → 帰還 → 陸軍病院 → 軍説得の拳銃自殺
2023-09-04
<ノモンハン捕虜帰還兵> 壊滅陣地 → チタ捕虜収容所 → 陸軍病院 → ソ満国境へ転属 → 兵役満期除隊 → 軍属徴用で奉天へ
2023-09-14
ノモンハン生還衛生伍長(1) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった
2023-09-18
ノモンハン生還衛生伍長(2) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった
2023-12-09
ノモンハン生還衛生伍長(3) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった
2024-04-10
ノモンハン1939年8月20日 日本軍の戦い、歩兵第71連隊の末期、歩兵第64連隊金井塚第3大隊
2024-04-17
(資料掲載) 勅令第百九十三号 金鵄勲章叙賜條例 明治二十七年十一月二十五日制定
1時間42分の戦闘で沈没した戦艦大和の戦死3056名 輸送船富山丸の魚雷沈没あっという間の2個旅団消滅
2023-07-20
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2023-08-22
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2023-09-04
<ノモンハン捕虜帰還兵> 壊滅陣地 → チタ捕虜収容所 → 陸軍病院 → ソ満国境へ転属 → 兵役満期除隊 → 軍属徴用で奉天へ
2023-09-14
ノモンハン生還衛生伍長(1) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった
2023-09-18
ノモンハン生還衛生伍長(2) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった
2023-12-09
ノモンハン生還衛生伍長(3) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった
2024-04-10
ノモンハン1939年8月20日 日本軍の戦い、歩兵第71連隊の末期、歩兵第64連隊金井塚第3大隊
2024-04-17
(資料掲載) 勅令第百九十三号 金鵄勲章叙賜條例 明治二十七年十一月二十五日制定
ノモンハン戦域図の出所は岩波現代文庫『ノモンハンの戦い』で、著者シーシキンは旧ソ連 (現ロシア) の人です。ノモンハン戦域図はソ連の資料に基づいて書かれていますが、地形図の上に地名が記されているので、戦場の地形と主要戦場名の位置関係が正確にわかります。
※1. ウズールノール …〈日本名〉ウズル水 ※2. ノモンハン・ブルド・オボー(上掲図 ●)
※3. 上掲図に地名記載がないが、〈日本名〉ノモンハン (日本軍中 継地点) は、ノモンハン・ブルド・
オボーより北にあり、さらにその北方向に日本軍拠点の〈日本名〉将軍廟がある。
※4. 〈日本名〉 ハルハ河 … 上掲図。河流が西北西方向からほぼ北に向きを変え、上掲図の外へ出て
まもなく西方向に再び向きを変えて、ボイル湖という大湖に流入する。
ノモンハン関連記述では、流入方向の右側を「右岸」または「東岸」、左
側を「左岸」または「西岸」と呼ぶ。
※5. ハイラースティーン河 …〈日本名〉ホルステン河 … 東から西へ流れてハルハ河に流入する。
ノモ ンハン関連記述では、流入方側を「北岸」、南側を「南岸」と呼ぶ。
※6. 〈日本名〉川又 … ホルステン河がハルハ河に流入する合流地点。上掲図に地名記載なし。
※7. ノゴー高地 … 〈日本名〉ノロ高地 ≒ 742高地
※8. レミゾフ高地 … 〈日本名〉バルシャガル高地 ≒ 733高地 (バルシャガル高地の西部)
※9. フイ高地=721高地 ※10. バイン・ツァガーン … 日本側渡河点対岸の高地
※3. 上掲図に地名記載がないが、〈日本名〉ノモンハン (日本軍中 継地点) は、ノモンハン・ブルド・
オボーより北にあり、さらにその北方向に日本軍拠点の〈日本名〉将軍廟がある。
※4. 〈日本名〉 ハルハ河 … 上掲図。河流が西北西方向からほぼ北に向きを変え、上掲図の外へ出て
まもなく西方向に再び向きを変えて、ボイル湖という大湖に流入する。
ノモンハン関連記述では、流入方向の右側を「右岸」または「東岸」、左
側を「左岸」または「西岸」と呼ぶ。
※5. ハイラースティーン河 …〈日本名〉ホルステン河 … 東から西へ流れてハルハ河に流入する。
ノモ ンハン関連記述では、流入方側を「北岸」、南側を「南岸」と呼ぶ。
※6. 〈日本名〉川又 … ホルステン河がハルハ河に流入する合流地点。上掲図に地名記載なし。
※7. ノゴー高地 … 〈日本名〉ノロ高地 ≒ 742高地
※8. レミゾフ高地 … 〈日本名〉バルシャガル高地 ≒ 733高地 (バルシャガル高地の西部)
※9. フイ高地=721高地 ※10. バイン・ツァガーン … 日本側渡河点対岸の高地
<ノモンハン周辺図> 『郷友連盟2007年6月海外研修 草原の戦跡を訪ねて(2)』から
http://www.goyuren.jp/mongol/mongol21.htm
※1 お手数ですが、拡大鏡でご覧願います。
※2 数字表記は高さを示していてこれを戦場地名とし、多くの場合下2桁をカタカナ読みして地名呼称
※2 数字表記は高さを示していてこれを戦場地名とし、多くの場合下2桁をカタカナ読みして地名呼称
としています。
たとえば三角山南の「744」高地は下2桁読みで「ヨヨ高地」と同一地です。
その東の「747」高地は、下2桁読み「ヨナ高地」と同一地です。
ニゲーソリモト北の「753」高地は二つあって、「西イミ高地」「東イミ高地」と同一地です。
※3 『ノモンハン戦域図』で、ハルハ河、ハイラースティーン河= (日本名) ホルステン河、フイ高地、
※3 『ノモンハン戦域図』で、ハルハ河、ハイラースティーン河= (日本名) ホルステン河、フイ高地、
ノロ高地の位置関係をよく見て、それから『ノモンハン周辺図』の同じ場所を確認すれば地図が
躍動してくると思います。
当ブログ 2023-09-04 <ノモンハン捕虜帰還兵> 壊滅陣地 中山仁志上等兵 (当時22才) → チタ捕虜収容所 → 陸軍病院 → ソ満国境へ転属 → 兵役満期除隊 → 軍属徴用で奉天へ に書いたように、捕虜釈放帰還後の中山上等兵は、兵役満期まで僻遠のソ満国境に転属していました。
そして兵役満期除隊後は軍属徴用身分になり、奉天で従事しました。ノモンハン戦争従軍兵は遠隔地に追いやられるのが、隠された原則になっていたのです。
さて、小野寺哲也衛生伍長のことです。
小野寺哲也氏は1937年 (昭和12年) に徴兵検査を受け、1938年 (昭和13年) 1月、旭川7師団騎兵第7連隊に入営。
1938年 (昭和13年) 2月、 第7師団が北海道から満洲国チチハルに進出。騎兵第7連隊は3カ月遅れてチチハルの第7師団を追った。
初年兵教育2カ月を過ぎると衛生兵の募集があり、小野寺氏は応募して陸軍病院で研修を受けました。衛生兵教育が終わって後、彼はハルビンの下士官候補教育隊に入隊し1939年 (昭和14年) 6月に卒業して、衛生伍長としてチチハルの第7師団軍医部衛生隊に所属しました。
1939年 (昭和14年) 6月20日、第7師団歩兵第26連隊 (連隊長 須見新一郎大佐) に、第23師団配属命令が下りました。命令を受けた歩兵26連隊は、即日、ノモンハン戦域に向けて出動。
7月20日、小野寺伍長に歩兵26連隊配属命令。 このころには、6月20日出動の歩兵26連隊が7月3日、4日の戦闘で全滅したという噂が流れていました。ノモンハンへ出たら生きて帰るのは難しいという、歩兵64連隊 (連隊長 山県武光大佐、8/29戦場自殺) 入院負傷兵の話も衛生兵の耳に入っていました。
小野寺伍長22歳は、須見歩兵26連隊本部に8月1日到着。生田第1大隊に配属されました。この日はまだ、連隊の全兵力がノロ高地に集結して、兵員の補充中でした。ノロ高地は将軍廟から40kmほどで、ノモンハンはその中間くらいにある場所の地名です。
そして8月5日、歩兵第26連隊生田第1大隊は、731高地から日の丸高地の一帯に展開します。大隊長生田準三少佐は陸軍大学入校がノモンハン戦争のために延期されていました。
「ノモンハン生還衛生伍長 (1)、(2)、(3)、(4) 」は、伊藤桂一著『静かなノモンハン』講談社文庫に描かれた小野寺哲也氏の歩兵第26連隊生田第1大隊従軍経験から拾いだしたものです。
2023-12-18 ノモンハン生還衛生伍長(4)
小野寺氏伍長は、生田第1大隊に着任したときから激戦を生き抜き、悲惨な退却行軍を経て、8月30日、将軍廟にたどりついた。9月16日、ノモンハン戦争停戦。この間ずっと陸軍衛生伍長の身分です。陸軍では、伍長、軍曹、曹長が下士という分類に入ります。
停戦後、ノモンハン戦争の戦功により、「功七級金鵄勲章」を受章しました。第7師団衛生兵の中で唯一人の金鵄勲章受章者という栄誉でした。准尉以下二等兵までの者のうち、初めての金鵄勲章受章者に与えるのが「功七級」です。
〇 金鵄勲章叙賜條例
第四條 准士官下士及兵卒ノ初叙ハ功七級トス武功ヲ累ヌルニ従ヒ逐次進級
セシメ准士官下士ハ功五級兵卒ハ功六級ニ至ルヲ得
セシメ准士官下士ハ功五級兵卒ハ功六級ニ至ルヲ得
ノモンハン戦争従軍者を日本内地へ帰さないという暗黙の不文律が貫かれていたのは明らかでした。文頭に紹介した中山上等兵は兵役満了時に、ひきつづいて軍属という身分で満洲国奉天に留められました。
小野寺伍長はノモンハン戦争から生還すると軍曹に昇進して、出身師団である旭川第7師団の病馬廠に転属しました。
生田第1大隊はソ連総攻撃初日の8月20日に第3中隊が全滅するほどの死闘を、8月29日生田第1大隊長が生死不明になるまで (停戦後に戦死体回収) 重ねてきて、ノモンハン戦でも最も厳しい戦闘をつづけた部隊の一つです。
小野寺軍曹にはノモンハン前線で小指を切る盟約をした戦友がいました。第一大隊の命脈尽きんとするわずかな日々に、戦死体の後送もできず、戦場で土に埋めることもままならず、攻撃目標を敵に与える戦死体焼却はできるはずもなく、戦死体の姿を隠すていどに砂を盛るくらいしかできなかった。そんな追いつめられた短い日々の戦友間で、生き残った者が小指を切り取って遺骨を故郷に返すという盟約が自然のなりゆきで広がっていました。
ノモンハン戦から帰還して在満洲国第7師団に落ち着いたころ、小野寺軍曹は、そういう約束をした戦友の一人の内地の実家へ、戦死の状況を手紙で知らせました。手紙にはノモンハン前線の悲惨な状況描写があり、そのことが師団司令部の検閲にひっかかりました。憲兵隊が担当して、営倉謹慎3日間の処罰を受けました。従軍した第一大隊の功績の裏打ちと小野寺個人の功績のゆえか、軽い処分で済みました。
1940年 (昭和15年) 、小野寺軍曹は内地で父母だけで暮らしている両親に元気な顔を見せたく、帰郷休暇を軍医に願い出ました。軍医部長は大隊壊滅までの小野寺の戰働きをよく知っていたので、休暇ではなく、旭川留守師団に転属できるよう手配してくれました。軍医部長には、「ノモンハン従軍兵を内地へ帰さない」という不文律が通じなかったのです。
小野寺軍曹は旭川留守師団、北海道浦河町の上陸用舟艇中隊勤務になりました。
1941年 (昭和16年) 12月8日、大東亜戦争 (太平洋戦争) 始まる。
※「静かなノモンハン」の著者が「大東亜戦争」という呼称を使っているので、著者を尊重
してこの呼称を使うことにします。
〇「樺太飛行場設営隊」転属命令 → 立ち消え
大東亜戦争が始まると、小野寺軍曹に転属命令が出ました。行き先は、樺太の飛行場設営隊。所属の上陸用舟艇中隊が彼の転属を渋ったので、転属は立ち消えになりました。樺太に転属していたら、樺太で戦死したか、捕虜としてシベリヤ送りになっていたかもしれません。
〇「一木支隊編成要員」命令 → 出頭に間に合わず命令取り消し
その後、旭川の連隊区司令部付に転属し、任務は「徴兵検査係」でした。この徴兵検査の任務で利尻島へ出張中に、一木支隊の編成要員に任ずる命令が出ました。後にガダルカナル島で玉砕した、あの一木支隊です。しかし、即日出頭というわけには運ばず、利尻島での徴兵検査任務を完了するまで、連隊区司令部に帰ることができなかった。事情やむなく、命令取り消し。
〇「山崎部隊編成要員」命令 → 出発に間に合わず命令見送り
アッツ島へ行く山崎部隊の編制要員に加えられたが、この時も徴兵検査で遠方にいて、出発に間に合わず見送りになった。山崎部隊も後にアッツ島で玉砕しました。
日本の陸軍は、ノモンハン戦争の戦功により金鵄勲章を受章した下士官を死なせようと、3回も試みたのです。樺太、ガダルカナル島、アッツ島。
ノモンハン戦争では、停戦後に自殺に追いこまれた実戦部隊長のお話もよく知られています。
小野寺伍長は旭川師団留守部隊で准尉に昇進して無事に軍歴を終えました。1986年 (昭和61年) 当時は保育園の園長や書道塾主宰をしておられると、『静かなノモンハン』著者の伊藤桂一氏があとがきで話しておられます。