信濃追分からは浅間山がよく見える。2006年10月。写真は以下同じ。
信濃追分の今昔についてのエッセイなどをまとめたもの。1999年刊行。
著者は川崎生まれで戦時中から戦後しばらく長野県諏訪地方の原村というところに疎開し、その頃から幾度も追分を訪ねたという。
その追分への愛がよく感じられる本。話は重複することや、資料の引き写しみたいなところもややあり、話の筋が辿りにくいけれど、戦後の写真多数。それが珍しかった。今は木が茂る追分だけど、30年代は原野のよう。思うに戦中、戦後に燃料として木は伐り出されたのかも。
また明治時代にはまだまだ宿、商店多数。まだまだ交通の要衝だったのでしょう。
著者は今もご存命で、今年も自費出版で本を出されたとのこと。
http://www.shinshu-liveon.jp/topics/node_235638
追分は中山道と北国街道が分かれる宿場が置かれ、昔はたいそう賑わったという。今は軽井沢からしなの鉄道で西へ二駅の静かな町。
中軽井沢の方からが山の形はいいかも。軽井沢からは手前の山が邪魔して見えません。
追分宿の面影
油屋旅館 戦前、文学者定宿だった油屋は火災に遇い、別の場所に建てられた。2013年現在、宿は廃業。建物は催し物などに利用されるていらしい。私が泊まったのは2006年、どっしりとしたいい宿でした。
分去わかされ。右、北国街道、左中山道。向こうは国道18号線。右にかすかに見えるのが旧中山道。車が迷いこまないよう標識があります。この付近も昭和30年頃は原野で、道路も舗装されていない。
詩集 風に寄せて
夏の旅
I 村はづれの歌 立原道造
咲いてゐるのは みやこぐさ と
指に摘んで 光にすかして教へてくれた――
右は越後へ行く北の道
左は木曾へ行く中仙道
私たちはきれいな雨あがりの夕方に ぼんやり空を眺めて佇んでゐた
さうして 夕やけを背にしてまつすぐと行けば 私のみすぼらしい故里の町
馬頭観世音(ばとうくわんぜおん)の叢(くさむら)に 私たちは生れてはじめて言葉をなくして立つてゐた
これは昭和10年頃の追分が背景にあると思われます。みすぼらしい故郷の町とは東京のことですね。なんでみすぼらしいと言ったのか、追分がそんなに好きだったのかな。
狩人の「コスモス街道」は立原の詩を本歌取りしていると思われます。脈々と引き継がれる抒情の世界。
コスモス街道歌詞 http://j-lyric.net/artist/a002424/l006f35.html
夏、信州、避暑地、一夏の恋、別れ、風、木、草と小さな花、少女・・・何で引かれるのかな。
暑い街中で雑用に追われ、人間関係に疲れて、しがらみのない高原に思いを馳せるのかな。
白馬山麓という歌もありましたね。 http://www.uta-net.com/song/125376/
白馬岳に行く前、夫の仕事場の階段を五階まで、リュック背負ってトレーニングしていた時、いつも聞いてましたけど、行ったときには豪雨、白馬尻で通行止め、泣く泣く引き返しました。行くときは水量少なかった谷川が轟々と音を立てて、木の一枚板の橋を渡るのも怖かった思い出が。
少しうんちくを許していただくなら、白馬は元は代馬、すなわち代搔き馬のこと。山腹の雪が馬の形に融けた頃に田起こしをする目安にする。だから馬は白ではなく岩の色。
http://www.hakubamura.net/feature/snowmarks/
現在の白馬岳ライブカメラ、15分ごとに映像が替わります。http://www.vill.hakuba.nagano.jp/livecam/livecamera.php?id=1&y=2013&m=07&d=22&h=09&i=00
いろいろな思いのある信州です。夏になると思い出します。