25日の日曜日、低い山ながら一人で登山した後、治りきってない左ひざの痛さがぶり返し、月曜日から大変困難をしていたわけですが、少しずつ良くなりつつあります。
これ、服用しています。昔、実母に出していた残り、・・・20年以上前のに加えて新たに出してもらいました。
最初の一回で、あら不思議、膝の周りの痛みの固まりが半減した感じ。それからは徐々にですが悪くはなってない感じ。
で、昨日は、普段は歩いて数分のホームセンターへ自転車で行き、花の苗を買ってきた。
私は山野草が好きですが、最近はこんな花も買います。
山野草は一年中場所を取り、冬には葉もなくなり、花が咲いてもわずか一日から数日、街中の狭い庭にはそれだけでは寂しい。
年取って身の回りから華やかさがなくなりつつある今日この頃、せめて庭先だけでも少し華やかに。
このプランターは季節ごとに花を入れ替えて楽しむことにしました。
こちら夏バージョン。まだまだ元気。
今回の結婚のあれこれで顕わになったのは、この制度が、内にいる人には人間性の疎外として働き、外にいる人には人を差別しても構わないという感覚を補強するものとして働いている、と私は愚考するわけです。
すさまじい報道でしたね。相手の人の家庭に父親がいたら、世間でいうしっかりした家庭ならここまで言われたでしょうか。
まるで相手の人に欠陥があると言いたげなマスコミの論調。いまだに相手の人を呼び捨てにして攻撃する人が出ていた先日のワイドショー、見ていて気分悪くなった。
報道は、取り上げ方一つでどのようにも世論を誘導できる。それ以前に何を報道し、何はしないかという取捨選択の段階で、世論を構成することもできるわけで、そのことに自覚的な人がどれだけいるのかなと私は思います。
憲法に定められた制度ではありますが、担うのは今の時代に生きる生身の人間、その人たちを甚だしい人権侵害の中に放置してまで続ける価値があるのかと。
嫁いだ女性には男児を産まないといけないプレッシャー、それで精神的に追い詰められたのは女性を産む道具としてしか見ていない古い考えの結果。
人は生まれる親を選ぶことができません。どんな親の子かは本人の手柄でもなく、落ち度でもない。だからこそ、女性は人間として生きるために結婚して出ていくしかなかったのだと思います。
自分で決めた人と結婚する以外にどんな生き方がある?
関係ない人間がいい悪いと無責任に、娯楽のように話すのはとてもよくないと思います。一人の人間の人生が掛かっているのですから。と言いつつ、私も語っているけど。
たぶん今回の結婚は大方の日本人が持つ価値観に揺さぶりをかけるもの。でも本人たちがいいと思って選んだのだから応援してあげたいと私は思います。
大多数の国民の同意なんて、そんな事口に出したらますます収拾がつかなくなることは明らか。そんなこと必要でしょうか。
戦後、人間宣言というのがありました。私は神様ではなくて人間だと宣言する。また近年では生前退位の希望が叶い、今回の結婚です。
私達も人間、そういう悲痛な叫びが聞こえてくるようです。
奈良平野の南部で、昔々始まった政治的な制度は時代の制約として宗教性を合わせ持っていました。時々の権力者もこの古代性をまとった制度を利用し、制度の側でも権力にうまく載って存続してきました。
権威があるとしたらいまだに分かちがたいその宗教性。それはありがたがる人の感情の深いところにあるので、否定できない。がしかし、それを担うのが現代に生きる生身の人間。
結婚して制度から出て行きたい。この気の毒な人を自分の力で幸せにする。という風に今回の結婚を私は読み解きました。
そのためには日本に住めない、当然権利のある一億数千万円の国庫金も受け取らない。世論に合わない結婚への懲罰かなと私は思います。あんまりです。
お母さんの金銭トラブルですが、債権があるなら筋を通して返してもらえばいいこと。それでも無理なら法的手段、それでいいと思います。自分の感情をマスコミに吐露してもこじれるだけ。
私個人の意見ですが、付き合っていた時の援助は別れた後で返せは、なかなか難しいのではないかと思います。その時には自分で納得して出したはずなので。
相手の反応がはかばかしくないので頭に来たのかもしれませんが、こういうことは感情で動いても結果はよろしくない。お金を返して欲しいのか、それとも腹いせでマスコミに訴えたいのかわかりませんが、こういう微妙な問題はいちいち世間に言わなくてもいいと私は思います。
淡々と進めてはどうでしょうか。
どなたか、今回の結婚を社会学的に考察していただきたいのですが、上野千鶴子氏とか、いまだ目に見えないタブーがあるので誰もしないでしょうね。
こちらなどを参考に
小室圭さんのロン毛を見てストンと胸に落ちた 私は眞子内親王の新しい人生を応援します〈dot.〉(AERA dot.) - Yahoo!ニュース