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「感情的にならない本」和田秀樹

2021-09-18 | 読書

どこで買ったのかな。夏の初め、イオンのブックオフで100円で買ったかもしれない。

ずいぶん前に読んで、そのままになっていたけれど、記録として書いておきます。

感情的になると人からは幼稚に見えるし、人間関係も損なわれ、自分も気分が落ち込んでいいことはない、という話の流れです。

主に会社勤めの中でのいろいろな理不尽にどう対処し、流していくかということなので、私には会わないのですが、少しずつ読みました。

自分の価値観が絶対と思わず、そういうこともあると軽く流して心を楽にする。のがいいそうです。あいまいさを許すということだそうで。

ふむふむ、人が自分と違っているのを面白がるか、許せないと思うのか。その違いですね。

先日、久しぶりにラインで話したママ友は誰とでもすぐに仲良くなれる人。でも人の詮索はせず、自分の過去は語らない。現在、見えるものだけで人とつながる。人を否定しない。私にはそう見えました。


この半月ばかり、嫌なこと思い出して落ち込んでいましたが、時間が経てばやがて何でもなくなるでしょう。というか、その程度のことであれこれ考えてしまう私って、きっと他に心配事がないからでしょうか。

世の中にはいろいろな人がいる。義理の付き合いは最小限にして、気持ちいい付き合いをしてこれからは過ごしたいと思う。

それにしてもコロナです。コロナだから会うのや連絡とるのを遠慮している人もいますが、私の知らないところでみんなで楽しく遊んでいるんじゃないかという被害妄想。

しかしながら、私は一人でも全然平気で、一人でどこへでも行ってしまう人なので、どこかにツルミたくないオーラが出ているのかもしれません。人と遊ぶのは子供のころから苦手だった。それが人を遠ざけるのかも。


人には期待せず、自分で自分を楽しくする。これからはいっそうそうですね。と、朝からばあちゃんの長話、失礼しました。

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自分の通夜、想定会話など・・・

2021-09-16 | 日記

 昨日の記事の後半、通夜の想定問答が一部受けたので、ワルノリして続きを考えてみました。

今度は嫁ちゃん二人も登場です。


しかしまあ、アバウトでその時々でやりたいことしてきた人だったねぇ。と誰かが話した続きから。

嫁ちゃん2 

いつか一緒に車に乗ってたとき、話の流れで、いきなりお母さんが運転するお父さんの後ろ頭を、笑いながらピシッと叩くの。ケンカしてるみたいで、もう私、怖くてぇ)))))

でもお父さんは怒らずに、みんなも全然気にしてなくて・・・私の実家では母は絶対に父に逆らわないから、びっくりして。

三男

ああ、あれね。嫁が怖がるからってあとでお母さんに言ったけど、「そんな気の小さいことでうちの嫁は務まらん」と笑ってた。全然話にならんかった。

長男

高校のころ、「うちで一番のさばってるんはあんた」と言ったけど、「そんなことない、私は普通」と言われたのでいったんは納得したけど、どうしても気になって・・・

一同

で、どうした?

長男

次の日に、「うーーーーん、お父さんが遠慮しすぎてるだけかもしれん」って言ったら、受けた。「そんなこと、昨日のうちに言いなさい」って笑ってた。

次男

僕らが小さいころは小説の同人雑誌に入ってて、夜、よくなんか書いてた。月に一度の同人会の日にはお父さんと一緒に留守番していた。

夫(生きていたら)

会では、「お宅はご主人は養子ですかって聞かれた」って笑ってた。よほど好きなことしているように見えたんだと思う。

三男

高校の時に、きれいでモテまくってたとよく自慢していた。で、勉強しなかったから西の方の学校へ来たけど、ほんとはもっと東の方へ行きたかったと話していた。

だからしっかり勉強しなさいって、自分は遊びまくってたくせによう言うよ。って高校のときは思っていた。

嫁ちゃん1

でも高校の時に何して遊んでたのかしらね。

三男

学校帰りに友達とうどん屋に寄ってうどん食べて、それから県庁のロビーで長話していたって聞いた。部室にも、店から出前でうどんやラーメン取って食べてたって。

次男

食べることしか考えてないんか。遊びもうどんがらみ。さすが香川の高校生。

長男

モテまくってたって、本当はどうだったのかな?

夫(生きてたら)

こちらの学校に来てからは地味だったよ。高校時代は誰も見てないので、話、盛ってると思う。

一同

やっぱりね。だと思ったよ(笑)

夫(生きてたら)

何でも手早かったけど、雑だった。料理の作り方はうちの母や妹とは大違いで、それでよくケンカになった。夕方6時半になっても若いころは本読んでたし、ネットするようになると、ヤフオク見たりしていた。それで恐る恐る「あのうー、ご飯というものは・・・」と聞くと「あらあ、今までご飯作らなかったことあるう?」と笑っていた。

で、パパパッと作り始めて、7時のニュースはご飯食べながら見ていた。いつもそんな感じ。

息子たち

そうそう、手早くできるものしか作らんかった。

次男

そんなもんだと思っていたから、「おばあちゃんちのご飯は工夫しすぎてておいしくない」って言ったら、お母さん、「ねっ、そうでしょ」と嬉しがっていた。

嫁ちゃん1

子供か小さいころワンピース縫ってもらったの。生地が余ってもう一枚縫ったよって後から渡されたら、弟が着たがって、二人でピンクの花柄のワンピース着ていた。

何で二枚分も買ったのかしら。謎。

孫1

お人形のドレスや着物もよく縫ってくれたよ。私がこんな服縫ってって絵を描くとその通りに作るので嬉しかった。

でも私の服は、レースをたくさんつけてっていつも頼んでいたら、レースが高くて買う方が安くつくからとあまり作ってくれなくなったの。

夫(生きていたら)

最初にお母さん見た印象はどうだった。

嫁ちゃん1

小柄で二ニコニコしている人って思った。結婚前に、遊びに来るとみんな笑ってるおうちだったので、私、よかったあ~って思ったの。結婚してからは、ご飯もよく食べさせてくれて、私は実家のことをいろいろ愚痴を言うとふんふんって聞いてくれた。

長男

喜怒哀楽は素直に出す人だったね。そのかわり後から愚痴は言わない人。自分の実家で、お父さんの家族のことは悪く言うの聞いたことなかった。言えば百倍にして心配するのが実の親だからって、よく言っていた。お父さんには好き勝手なこと言ってたけど、それで愚痴言わずに済んだのかな。たぶんそうだと思う。

嫁ちゃん2

初めて会ったのは名古屋駅で。どんな人かと思ったら、++さんと同じで面白い人だった。うちの母は言いたいことも我慢する人だけど、何でも言いたいこと言って、あまり細かなことは気にしない人だった。私の実家はいつも掃除してきれいだけど、毎日掃除しない家があるのにびっくりした。

亡き母

二日に一度は上から下まできちんと掃除、頑張ってたよ。台所は夜片付けた後にもう一度。と言い訳する。

夫(生きていたら)

好きなことして、いつも楽しそうにしていい人生だったかもしれん。人付き合いは格別いい方じゃないし、人の好き嫌いも激しくて、一度嫌いになると修正が効かなくなるので、友達はそう多くなかったけど、少ない友達とは長く続いていた。結局、高校からの友達ばかり。

息子たち三人。

そうなんだあ。そろそろ遅くなったから、もう寝よう。賑やかでお母さんもきっと喜んでいるはず。

実況

家族葬の会場は座敷が広くて何部屋もあり、昔のお母さんの実家みたいと一同くつろいでいる様子です。


 母=本人の本日2021年9月16日の感想。

人は自分らしさから逃れられるものではない。書きながらそう思った。もう少し何事も丁寧に、人付き合いも摩擦少なくしていれば、もう少しいい人生だったかもしれないけど、それが私なら、私に気を悪くした皆様、亡くなった後はどうぞお許しを。

それと学校文化の影響の大きさ。出たのは旧制中学と旧制女学校が合併してできた新制高校。昭和40年前後、まだ女学校からの家庭科や古文の先生もおられた。

おしゃれはテキトーに。男の子とは対等にモノを言う。勉強するに越したことはないけど、遊びも大切。校則も緩く、学校帰りにいろいろな所へ出入りしてよく遊んだ。

いまでも高校からの友達は、ほらあれが、そうあの時に・・・で話が通じる。余計な説明はいらない。

夫の高校、藩校の流れをくむ私立の男子校は、喫茶店出入り禁止って。不良になるからって。

えっ、コーヒー飲んだら不良になるの?じゃあ、コーヒーゼリーでも。コーヒーフロートはどうよ。コーヒーのどこで不良になるのと突っ込む私。

それはわからん。しかし、わしらの学校はそうじゃった、そうです。

自我が最終的に完成して大人になるのが高校時代。その時の周りからの影響は圧倒的。男の子は、先生のこと、陰では「**さん」とさん付けしていた。というかそう言う男の子が大人びて見えていた。

高校時代、きれいでモテてたかって?

それはそうあってほしかったという、私の永遠の、今では決して叶うことのない願望であります。

長話、深謝。

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秋の気配

2021-09-15 | 日記

涼しくなりました。季節は正直です。

唐楓に実がついている。近所の公園で。以下同じ。

珊瑚樹はモチノキ科。赤い実が鮮やか。

昔、病院の職員住宅に住んでいたころ、先住者が植えたこの木が。

「これにはのう、カイガラムシがよう着くんや」と母が話していた。

当時母は50代前半。来ると何か手仕事していた。孫のものをよく縫っていた。一本の木からよみがえる光景。

盗人萩。やがて実が実り、鞘全体に細かな毛が。服に着くとなかなか取れない。

定番の籔蘭。山にあるのは斑は入らない。これは園芸種のようです。

息子二人と。先日の初七日の後。二人は何かの上に立っているわけではなく、私が小柄なだけ。夫写す。

いつもこの目線で見下されていることに気が付く。

器を買った。小さなシリーズ。使わずに、ひな祭りに出そうかなと。

とりあえずすぐ出せるところに置く。


今朝買い物に行くと、カンパチのアラが安かったのでお買い上げ。

すぐに調理した。

茶色のおかずがしみじみとおいしい秋の到来。

平たいアラはフライパンで。煮返して何度かに分けて食べるかな。


夫が私のすることにあまりケチつけなくなった。しんみり、物静かになった。

どういう心境の変化?

自分が介護できなくなったけど、施設に入れるのは本当は嫌だったと昨日話していた。

認知症が進むと思って。ですって。何と心優しい息子でしょうか。(すみません、夫褒めで)

家庭の介護は不十分なところもあったけど、充分にやり切ったと思う。

便秘気味で一週間目くらいには、ゴム手袋嵌めて摘便していた。私は現場には行かなかったけど。

家族葬の喪主あいさつで、お母さんは昔からものすごく働いていた。入院患者、住み込みの従業員、家族の食事をいつも作っていた。と言いながらちょっと泣いていた。

若いころに大変な姿を見せていたので、孝行な息子になったのかな。


以前、長男に、「あんたは病弱な母親を楽にさせたいと思って医学部へ入ったんじゃないの」と言うと「何寝ぼけとるん?」と返される。

「お母さんが病気で、二里(約8キロ)の山道を走って町まで医者を呼びに行ったら、あんたところは貧乏だから診てやれんと言われて、一念発起、医者になってお金儲けて親を楽にしたいと思ったんじゃないの」とさらに聞くも、相手にされず。

ポツンと一軒家か。はい、アホな母親です。

私は必至な姿を見せていないので、この先、それがどう出るかな。


そして、10年後か、20年後か、あるいは明日か、私もあちらへ行くことは確か。

その通夜の席では私のアホなエピソードをみんなで話して楽しく過ごしてほしい。で、その席の話題を少し考えてみた。紙に書いて残しておこうかしら。これで話してって。

孫1「きれいでもないのに、いつも自分がきれいって言っていた」

三男「若い時の写真見たら中の中。みんな知らないと思って言い過ぎ」

夫(生きていたら)・・・無言。

孫1「私がシンデレラの映画作って、私がお姫様になるって言ったらおばあちゃんもなるって。年寄りだから無理って私、言ったのよ」

孫1「私が秘密の宝函見たらお姫様になれるって言ったら、おばあちゃんも必死で見ているの。それで少しお姫様になったって聞いてくるの。全然なってないのに」

長男「浜崎あゆみがいいって話していたら、自分も若い時はあんな感じだったって。とっさに、あんたははらさきたるみ(漢字だと腹先垂身か?)って言ってやった。受けた」

長男「まだ家にいるころ、体型をからかっていたら28にもなってあほなこと言って。伊藤博文はその年で明治維新やっていた。悔しかっらあんたも明治維新くらいやってみたらって、めちゃくちゃ言っていた」

孫2「僕は大きくなったら新幹線の運転手になりたいけど、おばあちゃんは小さいころ何になりたかったのって聞いたら、お話書いて本にするお仕事って言ってた。けど、いつも機織りしたりなんか変なもの縫ったりしていた」

一同、うなずく。

孫2「一番嫌いだったのは布で作ったおにぎり。おにぎり上げるから目をつぶっててごらんって言ったら、変なものって子供でも分かる」

次男は一貫して無口な子なので、何話すかなあ。

次男「小学校のころバッタ飼う時に、店で一番大きな飼育ケース買ってくれて嬉しかった」

次男「幼虫がものすごく怖い人だった。小さいころ、捕まえてきた大きな虫を家の中で這わせていたら、何それーーーーって、ものすごい悲鳴上げて」

一同「そうそう、それが弱点だった」ととうなずく。

次男「何の幼虫か分からんと言ったら、家の中で飼うなって言われた。飼いたかったのに」

長男、次男「高校生のころ勉強しなさいと言われたら、リアルに描いた幼虫の絵を見せて撃退していた。階段の上がったところへ置いとくと怖くて二階にも来れんかった」

一同、笑う。

次男「高校の校庭で捕まえた幼虫を、持って帰って庭に放していたら、時々お母さんが目にして、ものすごい悲鳴を上げていた」

三男「教育ママだった。小さいころ、積み木見て毎日平仮名書かされた。で、間違ったら五回も書かされた」

亡き母「じゃ、今平仮名が書けるのは私のおかげだね」と話に参加したいけど、残念ながらできない。

でも楽しそうなその場を想像すると、あちらへ行くのも少しだけ怖くなくなった。

すみません、ウチワネタで。今は家族葬が主流になりつつあるけれど、その頃はどうかな。

しみじみと、この世で出会った人の縁に感謝する秋の初め。


最近の自分の記事見て気が付いたのは、嫌なこと言われるのはあちら様の気持ちの顕れ。止めようがない。止められないことは気にしない。私は何も意地悪していないので、恥じることもない。

もう一人別な人にも、長男のことであれこれ言われたけど、親も笑ってしまう突っ込みどころが多いのは別として、結局はうらやましかったのだと思うことにしました。

相手にしないことはもちろん、気にしなければいいのだとやっと気が付きました。そのために毎日、姑様の葬儀をきっかけに、時間かけて自分の気持ちを整理していたのかもしれません。

でもそれに気が付いたら遠い景色。心が軽くなりました。書くことの効用ここにあり。祝。

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思い出すことなど

2021-09-14 | 日記

雨です。きょうはゴミ出しもないし、起きたら夫が一人で朝ごはん食べていた。

コーヒー淹れて、飲んでから仕事へ。仕事場は徒歩で10歩くらい。いちおう地番は違う。通勤は裏口から裏口へ。

午後から5か月ぶりに美容院へ行く予定。その間一度も切ってないのでずいぶん伸びたけど、しっかり結べたので通夜葬儀、自分でアレンジして臨んだ。しかもわざわざ髪型も変えて。

喪服も洋服と和服では髪型も変えたかった。その話を夫にすると、あんたの髪型、誰も気に留めていない。そりゃそうだ。着物か服かも気が付いてないって、そうかもしれませんね。何事にも無頓着な長男ならそうかもしれない。

最近では初七日が7時からと案内したら、朝の7時と思い込んでいたらしく、嫁ちゃんに突っ込まれた模様。四十九日の10時は夜じゃないからね、午前だからと言ってねと嫁ちゃんに頼む。


ママ友の家を訪ねた写真、昔のレンタル日記の中に探したけど、日記自体が容量オーバーになったのか、殆ど飛んでいた。残念。

探しているうちに、前のブログからもいろいろな写真が出てきたので一部を。

島根県浜田の道の駅から。お盆で海水浴している。2006年か2007年。先日も同じ場所を見た。

10年以上前、母に貰った鰆の押しずし。香川県の初夏の郷土料理。

その母。

10年くらい前。我が家で。

裂き織りするので古い着物をほどいてもらっています。もみうらのついた古い着物です。骨董市で調達。

着物もほどき方がある。縫う順番を逆に解くと簡単、とか言ってます。

長男の結納の時、昔の長じゅばんでは身幅が足りない筈と、縫い直してもらったことも。親が何でもできると娘はだいだいできませんね。縫物、習っておけばよかった。

簡単な丈直しなど自分でできるのに。

2009年だったかな。三男に連れられて愛知県の長久手にあるトヨタ博物館へ。

トヨタ式脱穀機。イネやムギの実を穂から落とす機械。手で束の穂をドームの中に入れると高速で回転しているローラーの突起と穂先が触れ、実だけが左下のタンク状のものに落ちる・・・のかな。

昔の農村ではよく見ていた機械。これは各農家に一台標準装備。この後、実の殻を取り除く籾摺り機は、高価だったのか、場所を取るのか、近所の数軒の農家の共同所有だった。

ばあちゃん、昔語りが止まりませんね。

これは割とシンプルな機械だったので、各地に中小メーカーもあったことでしょうが、トヨタも作っていた。まだまだ日本が農業中心の国だったころ。


香典で思い出した。

数年前、妹の義父が亡くなったので香典出してほしいと兄から電話が。

妹の嫁ぎ先の義父、全く知らない人で付き合いもない家、夫がお断りしていた。直接の知り合いではないのでと。

もし出したとしても喪主も戸惑ったのでは。一度出すと今後お付き合いが続くという意思表示、わざわざ付き合いの範囲、広げなくてもいいと思う。

今回のことも、あちこちへ連絡して香典出してほしいって言ったのかもしれない。でも他はどこからも来ないので、大丈夫のようです。

送る前に他の人に聞いて、足並みそろえるのも香典辞退と聞いたら必要かも。

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断捨離で尊厳を取り戻す

2021-09-13 | 断想

昨日、BSで断捨離の番組やっていた。普段はほとんど見ない。一度片付けても性格替えない限り、また元の木阿弥と思うので。

ても、今回はどんな風に片付くのか見てみた。

史上最強12部屋! “母の執着”で埋もれた家 | ウチ、“断捨離”しました! | BS朝日 (bs-asahi.co.jp)

両親は元教師、庭付き一軒家は台所と居間以外にたくさんの部屋があり広い。途中から見たのだけど、家にものが多すぎて、台所も調理するスペースがなくて今は近くで部屋を借りているらしい(介護施設に暮らすらしい。お父さんが家に帰りたいという希望)。そこから見た。

どの部屋も、背の高さぐらいに積み重なったものであふれている。姑様の部屋を思い出した。姑様の場合は50㎝くらい。片付けるのは次女、長女は片付けのことで母親と喧嘩して以後、絶交渉だそうで。

お母さん、全部がゴミではないと言い張る。新聞紙などの紙屑の間にも大事な(写真?)があるので捨ててはいけないそうで。人から見たらゴミにしか見えないものも本人には思い入れがある。

教師をしていたのなら教養もあると思うけど、人のことでは正しい判断ができても、自分のことになると、性格+今までの生き方から、娘の言うことを素直に聞いて物を捨てるということができないらしい。

断捨離アドバイザー、友人、業者も入れて1週間で片づける。広くなった部屋の、ゴミの奥から出てきたお父さんお気に入りのソファーに掛けて、みんなでお茶飲んで、お母さんがやっと「ありがとうね」というところで番組終了。

この先もゴミ、ため込まないといいなあと思った。

アドバイザーのやましたひでこさんが、断捨離は個人の尊厳を取り戻すため。と話していた。

しばらく考えたけれど、ゴミだらけの家に住む人は、汚いものでも平気な自堕落な人間と見られがち。という意味かなと思う

人は見た目が大切と言われるけれど、その人の印象は容姿、服装、そして住む家によって左右される。

容姿は親からの貰い物、服装はお金かけていいもの着るのが手っ取り早い。でも片付けは個人の努力でいくらでも出来るし、気持ちすっきりして達成感があるし、努力に対して報われる効果が大きいものだと私は思う。

やましたひでこさんによると、目の前のゴミを見ると意識がそちらに吸い取られてしまい、気持ちがマイナス方向へ行く。そんな話だと思った。

しかしまあ、たとえ親子でも自分のものでないものを片付けるのは大変。

お母さん、詩吟をしていた時のピンクの草履がいるという。出てきたのを見ると、80歳の人が履くには派手過ぎると思うけれど、若くて元気で楽しく活動していた時の思い出の品。捨てたくないのだろうと思った。

15年くらい前、姑様が物置にしていた。住み込み従業員の部屋3つをつなげてオーディオルームを作った。壁を取り払うなどは業者に頼み、内装などは自分で材料買って休みごとに少しずつ整備していた。

その際は、部屋を明け渡したくない姑と夫の間でいろいろあったらしい。置いていたのは古い衣類に布団、古い畳もたくさんあったらしい。私は現場見てませんが。新たに買うとお金がかかるので、いつか使えると取っておいたのでしょう。昔の人はそういう考えしますよね。

捨てるときもだいぶ抵抗したらしい。使えるもの捨てるのは罰が当たるって。夫が勝手に捨てるのでそれまでは姑様も対抗手段で鍵かけていたけれど、とうとう落城。あの時、思い切って捨ててもらってよかったと今では思う。そのあとも、あの部屋のもの、活用することはなかったはず。

あの時はもう大型ごみは有料になっていた。どちらがいくら払ったかは知らない。有料になる前日、南区では**町が集配ということで、夫に言われて、車に積んで公園の傍へ置きに言った記憶がある。その時も抵抗したのかな。私は現場見ていませんけど。

夫の努力の甲斐あって仏壇のある座敷だけは、何とか人を通しても恥ずかしくないくらいに片付いた。他の部屋はまだまだ。

台所、洗面所、トイレ・・・家で介護している時には義妹が一月に一度、施設に入っても面会できるときは2か月に一度来て泊まっていたけど、掃除にまで手が回らなかったらしい。

ドアを引き戸にする話をしていたら、義妹が家の中を変えないで欲しいと言っていたけれど、やがて歩けなくなってそれも不要になった。

今、姑様の家の掃除の責任者は誰?

私でないことは確か。自分の責任でない場所が汚れているのは、気持ちが萎えるけど、見て見ぬふりするしかない。以前、まだ家で介護していて、義妹夫婦が来る前に、あまりに姑様の布団が匂うのでさすがにまずいと思って、布団に消臭剤を掛けたら夫からえらく怒られた。

親の布団は匂わないのでしょうか。消臭剤は気になっても。不思議。姑様の、古い電気毛布持って帰っていたけれど、こちらも同じ匂い。即、捨てました。


おやおや、葬儀関係の記事は昨日で終わるつもりでしたが、最後はまたまた愚痴になったようで、失礼しました。

私もネガティブな思いの周りでぐるぐる回っていては、気持ちが落ち込むばかり。これからは心機一転、前向きに頑張ります。

日曜日の昼、二通目の書留郵便が届く。多分そうだろうと夫に出てもらったらやはり。お線香上げに来たい人から。夫がいいように処理するでしょう。お任せ。

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懐かしきママ友にたくさんの元気をもらう

2021-09-10 | 日記

ラインの設定をいじっていたら、長い間御縁が切れていたママ友とつながって、写真の送り合いして、お互いの近況報告をして、それから直接電話した。

もう40年以上前からの知り合い、初めは幼稚園入園前の長男を体操教室へ初めて連れて行き、そのあと近所の公園で彼女から声かけられて、お互い近所に住むのが分かったんだった。

彼女のご主人は県の職員で、公園の後ろの官舎住まい。息子たちは、幼稚園、小学校と同じで、中学校からは別で、だいたい友達でさえなかったのに、彼女とはずっとお付き合いさせてもらった。

息子が高校生になり、子育ての手も離れると、もう一人の友達と三人で、年に三回くらい、各自宅の回り持ちで話をする。それが今思えばとても楽しかった。


3Kの官舎にいたころから、カントリー風のインテリア、骨とう品の小物などでアレンジした室内はとてもお洒落で居心地よく、やがてマンションに引っ越してインテリアはますますバージョンアップ。もてなし上手の彼女の話も尽きることなく、毎回楽しく過ごさせてもらった。

東京で発刊しているインテリア雑誌や、地元テレビの情報番組に出たのもこのころ。

ご主人の退職後は九州へ帰って、お付き合いはそれきりになっていたけど、偶然にラインでつながると、彼女は近況報告の写真をたくさん。許可取るとブログの話もしないといけないので、イメージがよく似たフリー素材を上げてみます。

アンティークドールのコレクションは前からだったかな。

彼女の素晴らしいところは、お金をかけるのではなく、丁寧にあちこちを探し、自分の感性に合うものを組み合わせて、自分流の雰囲気を作ること。

享保雛、市松人形、土人形などのコレクションもたくさん。

欠けていたりするとそう高価ではないのかもしれない。その他にアンティークと骨董のコレクションたくさん。専用に部屋一つ使っているとか。そこであれこれ整理している彼女を想像すると、私も楽しい。

**さんもすればいいのに。ご主人の実家、広くて使ってない部屋があるでしょ???

(だから今はゴミ屋敷・・・私は片付けもできないし・・・などと、テンションの下がることは言わない)

ひな祭りの季節には、二年前までオープンハウスをしていたそう。

お茶出すの?とラインしたら、今度はテーブルセッティングの写真がズザザザザッーーーーと。

器は昔、見たものも。ひさご弁当というのを私は彼女の家で初めて知ったのだった。

イメージ。でも彼女は間違っても北欧系の高価な器は使わない。

素朴な昭和アーンティークのカップなど。ほっこりして優しい気持ちになれる。

こちらもイメージ写真ですが、パンはYouTubeみて焼いてるそうです。

そしてお庭も素敵。こちらもフリー素材から。

引っ越して14年だそうですが、イングリッシュガーデン風の緑のあふれる落ち着いたたたずまいでした。

いつの間にか70を過ぎた私たち、彼女は一つ下なのですが、元気いっぱい。二年前に病気してオープンハウスはやめたそうですが、これからも楽しいことして過ごしましょう、機織り頑張ってと激励してくれた。

コロナで人が会えない時代に、思いがけずに古いご縁が戻ってきて、彼女の生き方から思うことは、自分で自分を楽しくして、生き生きと暮らすのがこれからは大切と言うことでしょうか。

彼女なら自分のセンスで、カフェでもレストランでも出来そうだけど、当時はどんなお店よりもセンスがいいのでついつい長居しておしゃべりしていたけれど、九州の地で元気でいることが分かり、嬉しかった。

私も残りの時間、自分で自分を楽しくして暮らしたいと思う。

ありがとう~

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ああ、胸がバクバクする

2021-09-02 | 日記

1994年8月の真夜中過ぎ、街中の我が家に突如現れたたぬき。なぜ!!??

人慣れしていた。


昼ご飯食べていたら夫のスマホに義妹から電話。

姑様の死装束は準備しているのかと心配しているらしい。

死装束って、病院で亡くなったらレンタルの寝間着脱いで、葬儀屋さんが着せてくれるのではないの。

舅様の時は家で亡くなったので、姑様が着物準備してすぐ着せていたけど、今回は夫がタンス全部整理して、何も残っていない。結局、葬儀屋さんにお任せでいいのでは。

私なら喪主のすることには口出ししないけど、実際、実父の時は弟に何も言わなかったけど、人それぞれ。話を横で聞いていて、いろんなこと思い出して、胸がバクバクしてきた。私なら、自分の領域でないことは口も手も、もちろんお金も出さない。その方が何事もうまく進む。私自身、強く肝に銘じたいと思う。

息子たちには、もうよくないと連絡したけれど、参列は長男だけになるかも。下の二人はまだ免疫が不十分。

何かあると、とかく夫と意見の食い違う私。えらそげに言う私。くれぐれも口出ししないよう気を付けます。今のうちにお金下ろしたらと言ったけれど、充分あるってその金額が私の感覚では 少ない。でもそれ以上は言わない。ケンカしない。消耗するだけだから。不手際も本人の責任。


結婚が決まったそうで、よかったなと思いました。相手の人はふさわしい境遇になるようによく努力したと思います。

一連のネガティブキャンペーンは、女性宮家の創設に反対する勢力が策動したと私は勘繰っています。こんな人(こんな親の子)を皇室に入れていいのかと。でもお二人はよく頑張りました。幸せになっていただきたい。よしんば苦労があったとしても、それも含めての人生。努力して乗り越えていただきたい。応援しています。

女の子の親としたら、娘の花嫁姿は見たいはず。責めて衣装着て写真撮って、内々だけでお祝いすればいいのにと思います。

子供の連れてくる結婚相手の親なんて、選びようがない。合わなくてもそういうもんだと割り切るしかないのです。親戚になりたくないと思っても、子供の幸せのためには目をつぶるしかない。

家の雰囲気、文化というものはこうして少しずつ変わっていく。

女性宮家の件ですが、あと二人には認めてもいいのでは。初めは違和感あってもすぐに慣れると思います。そうしないとますます先細り。伝統は臨機応変に変えてこそ続いて行くのではないでしょうか。

天皇制に関しては私個人としては考えるところがありますが、結婚できるそうでよかったなと思いました。おめでとうございます。

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海を見ていた午後

2021-09-02 | 日記

姑様の病院へ行くも、面会は二人までなのでロビーで待っていた。

目の前が海。開け放した窓から夏の終わりの風が気持ちいい。


帰宅後、今度は自転車と徒歩で同じ場所へ海を見に行く。

森の入り口付近。マンションの人たちの花畑になっている。

こちらは自然の植生。

ヤブミョウガ。

クサギ。染色に使うとのこと。臭いです。

暁部隊の司令部の壕跡と言われている。もう一つある。

私が嫁に来た頃は簡単な柵で、立ち入りもできていたような気がする。

地元には暁部隊を記念するものは一切ありません。原爆だけが広島ではないのだけど、消し去りたかった歴史なのでしょう。書類も米軍が来るまでに毎日燃やしたと言う話です。

今はコンクリートで埋めて夏草が茂り、やがて完全に忘れ去られるのでしょうか。

似島と宮島。マツダの車をどこかへ運ぶ船。

突堤。

ツルナ。汽水域に生えて塩分を取り込みます。

一部摘んで帰り、おしたしにする。塩味が濃い。

向こうで年配男性が海水浴しています。

沖行く船。

断崖。

方状摂理。

釣り人。


ホテル横でオシロイバナの写真撮っている男性が、ここはいろいろ交配して面白いと教えてくれます。

男性によると、白⇔赤、赤⇔黄は交配するけれど、白と黄は交配しないそうです。

不思議ですね。

バスの転回所。というのが好きなのです。

次の出発まで、ドライバーさんは右の小さな小屋で休憩。

子供のころ、母の実家からの帰り、バスが出るのをバス停前のよろず屋の軒先で待っていたあの時の気分。

バスの乗車券は大きな軟券。

山、夏空、ため池、木と草、夏の花、ケイトウ、キキョウ、ハス、タニシ、カラス貝、田舎の元気な子・・・そんなことを思い出した。

長男に、喪服出して一度着てみなさいとラインしたら、その様子なら3日くらいかなと返事が。

夫は正常化バイヤスというのか、全然慌てていない。ように見えます。義妹も一泊してとりあえず帰った。

この先はいずれまた。。。。

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