ハトとたんぽぽ

和子の気まま日記

2018年1月8日(月)、一日中雨

2018年01月09日 05時09分22秒 | 天気、気候

   朝から雨が降っていた。

散歩も出来ないので、お弁当を作ったり、早めの食事をして、のんびり過ごしていたら、娘から、音楽が聴きたいので、アイポットを持って来てほしいと電話があった。

   慌てで準備して出かけるが、雨が降っているので、とりあえず車で、永和の踏切のところの駐車場に止めるが、モタモタしていて、目の前を電車が行ってしまった。

仕方がなく、30分待っていたら、寒くて寒くて、これでは風邪がぶり変えそうだ。

    病院についたら、病室がいつの間にか個室に代わっていた。

戸を開けると、ピッピッピーとなる部屋で、私がいる間は止めておく。

   娘と久しぶりに腹を割って話ができる。

生きていてよかった。もしあのまま娘が死んでいたら、生きたまま死ぬまでズーと苦しみ抜いていることになる。

   これから2人でケンカはするけれど、一緒に生きていかなければならない。

   私も母と気が合わなかったので、しょっちゅうケンカをしてきた。

家の中で、包丁で追いかけられて、殺されると叫んだこともあった。

こんな家は嫌だと思っていたけれど、家出もできず、死ねことなんか一度も思わなかった。

   母は後妻であった。兄と姉は、先妻の子供。

終戦直後は男性は戦争に行って、結婚したくても、男性がいない時代で、お見合いをして、父と結婚したそうです。

    お見合いした時は、父がマスクをしていたので、結婚式の時に始めて、父の顔を見たら、すごく出っ歯だったとぼやいていました。

    色んな事があっても、兄や姉に手を上げることごできなかったのか、また、私はずいぶん反抗的だったこともあって、叩かれたりすることが多かった。

いつも押し入れで一人泣いていた。頑固で強情な性格は母の教育の賜物である。

   結婚も母の反対を押し切って、駆け落ちをして認めさせた。

でも、母の苦労を思うようなって、少しでも親孝行をしなくてはという思いはあった。

    港区に住んでいたが、息子が生まれて、喘息がひどく、父も気管支が弱かったこともあって、空気のいい佐屋に引越してきた。息子はみるみる間に元気になった。

     一緒に住めば、やはり女同士の親子はケンカが絶えない。

    子供を連れて家出をしたけれど、行く先がなく、すぐに戻るを繰り返していた。

   一昨年の2月11日に突然母が亡くなって、2月に三回忌を行なうが、いっぱいケンカしてきたし、95歳まで長生きして、どこに行くにも、北海道から沖縄まで一緒に行き、私なりの親孝行もして来たので、悔いはない。

    生きている間に親孝行してくれるのが一番うれしい。死んでからいくら拝んでもらってもうれしくないというのが、母の口癖でした。

     娘と私はこんな親子になりたい。

    今日の万歩計は、5,333歩でした。

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