室温は、19.5度(7:00)
朝からずっと雨が降っていた。
何だか頭が重くて、「ほっとハウス」にパン作りのお手伝いに行く予定をしていたが、お断りして、ベットで娘から借りていた越智智子さんの「課長さんはダウン症」を読み上げる。
越智さんは弥富市生まれで弥富市育ち、中学校時代はソフトボールに明け暮れて、真っ黒に日焼けしていたので、母親が心配して、ピアノをお稽古を進められ、のめりこんでいった。
音楽大学に進学して、本格的にピアノを習うが、大学オーケストラではビオラを弾くとこれにものめり込んでいき、オーケストラの楽しさを味わう。
卒業後、高校の非常勤講師として働きながら、市民オーケストラに参加する中で、お見合いの写真を見せられて、兵庫県相生市の「この人と結構する」と決めて、お見合いをして、1976年(昭和51)5月8日姫路市で結婚。
次の年の1977年(昭和52)3月7日に章仁くん出産。
しかし何だか普通の子どもとは違い、成長が遅く、次男が生まれた病院で見てもらうと「精神薄弱」と言われ、ショックを受け、3歳の時にダウン症の診断を受ける。
夕方1人で出掛けていき、電車を見に行ったり、遊園地では1人で観覧車に乗ったりしたこともあったが、何とか幼稚園を卒園。
小学校では特殊学級に進学して、一人一人の成長に合わせた教育をしてもらう。
そんな中、夫がガンになり、42歳の若さで旅立ってしまった。
二人の子どもを連れて、弥富市の実家に帰り、章仁君は佐織養護学校、次男は地元の小学校に通い、第3の人生が始まる。
章仁君は、家にあるピアこの前に座って「ひく」というので、ドレを教えると、次の日にドレミを弾き、ピアノに興味を持つようになり、親子でピアノレッスンを行う日々が増えてきた。
始めての演奏会は、相生市の幼稚園での演奏会は、とても喜んで頂き、デビューすることとなった。
それから45歳になるまで400回以上のコンサートをやって来た。
養護学校の中学になっていた頃から、自作の曲を演奏するようになっていた。
夫の追悼コンサートでは「海のように」を弾くと、いつも夫のことを思い出します。
出雲市民会館大ホールでのコンサートでは堂々と自作の「春」を弾きました。
1976年に愛西市善太新田町の教会のメンバー中心にハレルヤ生活園を立ち上げ、12年間パンやクッキーを作って資金作りをする。
1998年(平成10)10月4日に隣町の弥富市にパンとクッキーの店「ほっとハウス」を開所。
多くのボランティアの人たちとパンとクッキーを作って、知人や公共施設などに売り歩く。
2001年(平成13)6月1日次男の協力の元、アメリカスタンフォード大学で「夫の30年追悼コンサート」を実現。
日本中から世界中から声がかかり、ピアノ演奏に出掛けて大忙し。
章仁君40歳、ほっとハウス20周年を記念して、2017年(平成29)3月19日に愛西市文化会館でコンサートを開催。
2019年(令和元年)ほっとハウスの2階「ドリームハウス」を防音音楽室、卓球室と自宅を改装する。
2019年(令和元年)11月1日に「NPO法人ほっとハウス」(日中一時支援)を立ち上げる。
相変わらず章仁君は課長、太田くんは係長。
越智さんは最後に「課長はもう45歳になった。部長でもいいかとも思うけれど、社長もいないからまあいいか。(中略)彼は私と音楽人生を共にしてきた。もし健常者であったらこの人生は無かったと思う。彼は彼なりに人生を素敵に楽しんで生きてこられた。それが幸せだったと思う」と綴っています。
苦労も多かったと思うが、ダウン症の章仁君との音楽の人生は多くの人たちとの出会いで、豊かな人生が送れたことは宝物です。
佐藤喜美子さんの詩の一部
おかあさん
元気、根気、のん気に
希望のエッセンスを
一滴、二滴振りかけて
それをモットーとして
生きていきましょう
と綴っています。同じ障がい者を持つ親としての生き方を学びました。
今日の万歩計は、5,573歩でした。