経営コンサルタントへの道

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■【きょうの人】 0615 ■ 源 義経 牛若丸としても知られる  独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介

2023-06-15 06:33:00 | 【話材】 きょうの人06月

 

  【きょうの人】 0615 ■ 源 義経 牛若丸としても知られる

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 源 義経 牛若丸としても知られる

 みなもと の よしつね、源義經
 平治元年(1159年)-文治5年閏4月30日(1189年6月15日) 享年31

 平安時代末期の武将、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝は異母兄です。仮名は九郎、実名は義經(義経)です。

 河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸(うしわかまる)と呼ばれ、五条の大橋で、弁慶を懲らしめた話は有名です。

 平治の乱で父が敗死したことにより、鞍馬寺に預けられました。

 後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受けました。

 兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼす、最大の功労者となりました。

 その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって頼朝の怒りを買うことになりました。

 このことから、頼朝と対立し、朝敵とされ、義経の嘆願にもかかわらず、追われる身となりました。

 全国に捕縛の命が伝わりますと、難を逃れ再び藤原秀衡を頼りました。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃しました。

 その最期は、多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき、「はんがん」と読まない)という言葉を始め、多くの伝説や物語を生み、その一つとして、中国に渡り、ジンギスカンとなったともいわれます。ただし、ジンギスカンと義経とは時代が異なり、これは単なる伝説に過ぎないと言えます。

【経営コンサルタントの独り言】

 子供の頃、牛若丸と弁慶が五条橋で闘うお話を夢中になったことを思い出します。
 子供の頃は、大人は強い、年をとるほど強くなる、おじいちゃんは相当強い、こんな風に考えていた頃があります。
 子供が、大の弁慶を打ち負かすという、信じられないことが起こることに、何か、期待感を抱いたのかも知れません。

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■【きょうの人】 0614 柴田 勝家 信長に逆らった男 ■ 松平 定信 没  江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫、寛政の改革  独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介

2023-06-14 06:33:00 | 【話材】 きょうの人06月

 

  【きょうの人】 0614 柴田 勝家  信長に逆らった男 ■ 松平 定信 没  江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫、寛政の改革

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

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■ 柴田 勝家 信長に逆らった男

 しばた かついえ
 大永2年(1522年)?-天正11年4月24日(1583年6月14日)

 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名で、下社城址には、柴田勝家誕生地の碑が、愛知県名古屋市名東区陸前町の明徳寺に建っています。

 出自は不明で柴田勝義の子といわれますが、確実な資料はなく、おそらく土豪階層の家の出身であるといわれています。

 若いころから織田信秀の重鎮として仕え、尾張国愛知郡下社村を領していました。信秀が死去しますと、子の織田信行(信勝)に家老として仕えました。

 信行を信秀の後継者にしようと林秀貞と共に画策し、織田信長の排除を試みましたが、信長との戦いに敗れました。信長・信行生母の土田御前の強い願いで赦免され、受け入れられました。

 信行が、謀反の計画を企んだときには信長に事前に密告し、仮病の信長を見舞った信行は殺害されました。

 本能寺の変後の清洲会議で、織田氏の後継者問題では秀吉への対抗もあり、信長の三男・織田信孝を推しました。しかし、秀吉が、明智光秀を討伐したことで実績や発言力を増し、信長の嫡孫・三法師(後の織田秀信)を擁立した秀吉に押し切られました。(異説もある)

 信長の遺領配分においても河内や丹波・山城を増領した秀吉に対し、勝家は北近江3郡と長浜城(現在の長浜市)を新たに得たのみで、勝家と秀吉の立場は逆転してしまいました。

 清洲会議の結果、3歳の三法師に叔父・織田信雄と信孝が後見人となり、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の4重臣が補佐する体制となりました。

 その後、勝家は信長の妹・お市の方と結婚しました。

 勢力争いがくすぶり、勝家は、滝川一益、織田信孝と手を結んで秀吉と対抗しますが、結果的には、賤ヶ岳の戦いに敗れ、北ノ庄城にてお市とともに自害しました。享年62歳でした。

 

■ 松平 定信 没  江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫、寛政の改革

 まつだいら さだのぶ
 宝暦8年12月27日(1759年1月25日)-文政12年5月13日(1829年6月14日)

 江戸時代中期の大名、陸奥国白河藩3代藩主で、老中を務めました。江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫に当たります。

 1787年から1793年まで寛政の改革を行いました。定信は、田沼の政策の経済政策をことごとく覆したとしばし言われます。

 天明の大飢饉における藩政の建て直しの手腕を認められた定信は、天明6年(1786年)に家治が死去して家斉の代となりました。田沼意次が失脚した後の、天明7年(1787年)、徳川御三家の推挙を受けて、少年期の第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となります。

 田沼意次の政治により、武士の世界は金とコネによる出世が跳梁しており、農村では貧富の差が激しくなり没落する貧農が続出していました。

 天明の打ちこわしを期に、幕閣から旧田沼系を一掃粛清し、祖父・吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指しました。

 幕府財政の再建の為に、大胆な財政緊縮政策を行いました。田沼時代の運上金、冥加金の上納を引き換えとして特権を与えるなどといった商業資本重視の政策は、下層への搾取を生み、富商・富農の誕生を促進させたと判断した対応でした。

 一方で、農村で大量離村が発生したりして苦慮しました。対策として倹約や風紀粛清に尽力しました。福祉政策として、飢餓に備えて各藩で「社倉」「義倉」に穀物を備蓄するよう命じたりもしています。

 教育政策では、朱子学による学問吟味=官吏登用試験を行うことによって、幕府に忠実な封建官僚群を育成しようとしました。

 ヨーロッパの情勢が変化する中、定信は消極的開国政策を示し、ロシアなどの対外政策を実施しました。

 松平定信の改革は、一定の成果をあげましたが、その厳粛な厳しい政治に対する反発から失脚しました。

 

 

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■【きょうの人】 0613 ■ 明智 光秀 ■ 北条 義時  ■ 修円 平安時代前期の法相宗の僧  独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介

2023-06-13 00:03:00 | 【話材】 きょうの人06月

 

  【きょうの人】 0613 ■ 明智 光秀 ■ 北条 義時  ■ 修円 平安時代前期の法相宗の僧

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 修円 平安時代前期の法相宗の僧

 しゅえん
 宝亀2年(771年)-承和2年6月13日(835年7月16日)

 平安時代前期の法相宗の僧で、俗姓は小谷氏、大和国北谷の出身です。

生禅師(ていしょうぜんじ)とも称されます。

 義真から天台教学を学び、義真の没後は義真に代わって、大和国室生寺に住し、いわゆる「室生天台」を現出させた「円修」と混同されることが多いのですが、別人です。

 大和国興福寺の賢憬に法相を学び、794年(延暦13年)比叡山根本中堂の落慶供養の際その堂達をつとめました。805年(延暦24年)には最澄から灌頂(かんじょう:菩薩が仏になる儀式)を受けています。

 810年(弘仁元年)に律師、812年(弘仁3年)に興福寺別当となり、興福寺に伝法院を設けて深密会を始めました。827年(天長4年)には、少僧都(しょうそうず:僧正の下にあって、大僧都を助けて僧尼を統率する僧官)となりました。

 空海とも親しく、天台宗・真言宗という当時としては新しい仏教に理解を示していたようです。


■ 明智 光秀

 あけち みつひで
 不明 - 天正10年6月13日(1582年7月2日)

 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名で、本能寺の変で、その名はよく知られています。 

 清和源氏の土岐氏の支流である明智氏に生まれ、父親の名前も伝わらない低い身分でした。そのため、歴史舞台に登場する前野光秀の詳細は、あまり伝わっていません。

 土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕えますが、弘治2年(1556年)に、道三が、息子義龍と長良川の戦いを行い、道三に味方した光秀は、義龍に明智城を攻められ、一族が離散しました。

 室町幕府の将軍足利義昭は、織田信長を含む各地の武将に上洛と自身の将軍擁立を促しました。朝倉義景の世話を受けていた光秀は、義昭が義景を頼ったことを契機に、光秀は義昭と接触を持つこととなりました。

 一時期、義昭と信長の両属の家臣でしたが、光秀は、金ヶ崎の戦いで信長が浅井長政の裏切りで危機に陥り撤退する際に、秀吉と共に殿(しんがり)を務めて防戦に成功しました。

 比叡山焼き討ちでは、実行部隊の中心として武功を上げ、近江国の滋賀郡を与えられ、間もなく坂本城を築城します。

 この頃から信長に重用されます。ところが、原因は、いまだに明白ではありませんが、信長に反旗を翻し、本能寺の変に至ります。

 羽柴秀吉に攻められ、配下の黒田孝高が山崎の要衝天王山を占拠して、光秀ら十数騎で移動中、小藪から百姓の錆びた鑓で腰骨を突き刺されました。最期と悟った光秀は自らの首を「守護」の格式を表す毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)に包んで知恩院に届けることを言い残したといわれています。

 光秀の娘珠(後の細川ガラシャ)は、細川忠興の正室となっていることは、よく知られています。


■ 北条 義時

 ほうじょう よしとき
 長寛元年(1163年)-元仁元年6月13日(1224年7月1日)

 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将で、鎌倉幕府の第2代執権です。伊豆国の在地豪族・北条時政の次男で、源頼朝の正室・北条政子の弟です。

 源氏三代にわたる将軍が途絶えた後の、鎌倉幕府の実質的な最高指導者といえます。

 幕府と朝廷の対立が激化しますと、後鳥羽上皇より北条義時追討の宣旨が全国に発布され朝敵となりました。幕府軍は、京都に攻め上り、朝廷を制圧した、いわゆる承久の乱となったのです。 

 北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなりました。

 

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■【きょうの人】 0612  今川 義元 桶狭間の合戦で知られる  独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介

2023-06-12 00:03:00 | 【話材】 きょうの人06月

 

  【きょうの人】 0612  今川 義元 桶狭間の合戦で知られる

 

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■ 今川 義元 桶狭間の合戦で知られる

 いまがわ よしもと
 永正16年(1519年)-永禄3年5月19日(1560年6月12日)

 戦国時代の駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名で、今川氏第11代当主です。義元の姉妹が、政略結婚していますので、武田信玄や北条氏康とは義理の兄弟にあたります。「海道一の弓取り」の異名を持つ東海道の広大な地域の支配者でした。

 寄親・寄子制度という合理的な軍事改革等により、たくみな領国経営をしていました。また、外征面でも才覚を発揮して、今川氏を戦国大名へと転身させました。

 所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで領土を拡大させたのです。

 戦国時代における今川家の最盛期を築き上げ、一方で、京都志向が強く、都の雅な文化を取り入れていたことも知られています。

 桶狭間の戦いで大群を引き連れていたにもかかわらず、織田信長軍の奇襲戦に敗れたことは、あまりにも有名です。毛利良勝(新助)に討ち取られて、その生涯を閉じました。

 

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■【きょうの人】 0611 アレキサンドロス大王(3世) アレキサンダー大王の大遠征  独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介

2023-06-11 00:03:00 | 【話材】 きょうの人06月

 

  【きょうの人】 0611 アレキサンドロス大王(3世) アレキサンダー大王の大遠征

 

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 アレキサンドロス大王(3世) アレキサンダー大王の大遠征

 紀元前356年7月20日 - 紀元前323年6月10日

 通称アレクサンドロス大王といいますと、3世のことです。

 3世は、古代ギリシャのアルゲアス朝マケドニア王国のバシレウス(在位:紀元前336年 - 紀元前323年)のことです。

 「アレキサンドロスの大遠征」といわれ、強大な軍事力を下に、広大な地域を制覇しました。コリントス同盟(ヘラス同盟)の盟主でありましたり、エジプトのファラオも兼ねたりもしました。

 ヘーラクレースとアキレウスを祖に持つとされ、ギリシアにおける最高の家系的栄誉と共に生まれました。

 ギリシア語ではアレクサンドロス大王ですが、英語風に読みますとアレクサンダー大王またはアレキサンダー大王となります。

 

 

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■【きょうの人】 0610 惠心僧都源信 浄土真宗七高僧の第六祖  独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介

2023-06-10 00:03:00 | 【話材】 きょうの人06月

■【きょうの人】 0610 惠心僧都源信 浄土真宗七高僧の第六祖

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 惠心僧都源信 浄土真宗七高僧の第六祖

 えしんそうずげんしん
 天慶5年(942年)- 寛仁元年6月10日(1017年7月6日)

恵心院
(比叡山延暦寺横川兜率谷)
源信(げんしん)は、平安時代中期の天台宗の僧で、惠心は、恵心僧都(えしんそうず)と、浄土真宗では、七高僧の第六祖とされ、源信和尚、源信大師と尊称されます。

 大和当麻で生まれ、幼少時に比叡山に登り、比叡山中興の祖慈慧大師良源(通称、元三大師)に入門し、止観業、遮那業を学び、天暦9年(955年)に得度しています。

 天暦10年(956年)には、わずか15歳で『称讃浄土経』を講じ、村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれました。

 寛仁元年6月10日(1017年7月6日)、76歳にて示寂しました。臨終にあたって、阿弥陀如来像の手に結びつけた糸を手にして、合掌しながら入滅したといわれています。

 

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【きょうの人】 0609 ■手塚 治虫 漫画・アニメ表現の開拓者 ■ピョートル大帝(1世) 帝政ロシアの代表的な皇帝

2023-06-09 00:00:00 | 【話材】 きょうの人06月

 

  【きょうの人】 0609 ■手塚 治虫 漫画・アニメ表現の開拓者 ■ピョートル大帝(1世) 帝政ロシアの代表的な皇帝

 

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■ 手塚 治虫 漫画・アニメ表現の開拓者

 てづか おさむ、本名:手塚 治
 1928年(昭和3年)11月3日 - 1989年(平成元年)2月9日

 説明するまでもなく、日本を代表する漫画家であり、アニメーター、アニメ監督としても活躍しました。戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、漫画表現の開拓者的な存在として活躍してこられました。

 兵庫県宝塚市出身(出生は 大阪府豊能郡豊中町、現在の豊中市)で、同市名誉市民でもあります。大阪帝国大学附属医学専門部を卒業。医師免許取得のち医学博士(奈良県立医科大学)を持っていました。

 大阪帝国大学附属医学専門部在学中の1946年1月1日に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』(『少国民新聞』連載)で漫画家としてデビューしたのですね。知りませんでした。

 1958年頃より、各漫画誌で桑田次郎、武内つなよし、横山光輝などの売れっ子漫画家が多数出現していて、手塚は、漫画家達の中の一人に過ぎなくなっていました。そのためにノイローゼにまでかかったという話も残っています。天才にも、その様なことがあるのですね。


 幼少期からディズニー映画を愛好していた手塚は、もともとアニメーションに強い関心を持っており、

 1961年、手塚は自分のプロダクションである手塚プロダクションに動画部を設立、後に虫プロダクションと改名しています。

 1963年に、自作をもとにした、日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼしたことはいうまでもありません。

 当時、従兄弟達が、それを見る年代で、テレビにかじりついていたことが、昨日のように思い出されます。

 しかし、アニメブームと共に、多くの同業社の乱立・乱作から、コスト競争に直面し、倒産にまで追い込まれました。私の知人が、その時の管財人をしていました。

 晩年近く、1980年代になりますと、幕末から明治までの時代に自身のルーツをたどった『陽だまりの樹』(ビッグコミック)など、歴史物で円熟味を示し、青年漫画というJANするに新たな代表作を手がけることになりました。

 100歳まで描き続けたいと言っていた手塚は、昏睡状態を断続的に起こしたにもかかわらず、病院のベッドで医者や妻の制止を振り切り漫画の連載を続けていたそうです。

 死に立ち会った人によりますと、「頼むから仕事をさせてくれ」というのが手塚の最後の言葉であったといわれています。

 最後まで、漫画・アニメーターだったのですね。

 

■ ピョートル大帝(1世) 帝政ロシアの代表的な皇帝

 Pyotr I Alekseevich(ラテン語表記)
 1672年6月9日(ユリウス暦5月30日)-1725年2月8日(ユリウス暦1月28日)

 モスクワ・ロシアのツァーリ(在位:1682年 - 1725年)、初代ロシア皇帝(在位:1721年 - 1725年)。

 ツァーリ(皇帝位)を父に持ち、大北方戦争での勝利により、ピョートル大帝と称されるようになりました。

 ロシアをヨーロッパ列強の一員に押し上げ、スウェーデンからバルト海海域世界の覇権を奪取してバルト海交易ルートを確保しました。黒海海域をロシアの影響下に置くことを目標とした「南下策」をとりました。

 これらを達成するために治世の半ばを大北方戦争に費やし、戦争遂行を容易にするため行政改革、海軍創設を断行しました。その実現のために、貴族に国家奉仕の義務を負わせ、正教会を国家の管理下に据えるという、帝国における全勢力を皇帝の下に一元化しました。

 また歴代ツァーリが進めてきた西欧化改革を強力に推進し、外国人を多く起用して国家体制の効率化に努めたことも知られています。

 1721年に大北方戦争の勝利を記念し、元老院にインペラートルの称号を贈らせ、国家名称をロシア帝国に昇格させたのです。ロシアを東方の辺境国家から脱皮させたその功績は大きく国内で評価され、「ロシア史はすべてピョートルの改革に帰着し、そしてここから流れ出す」とも評されるほどです。


 私が高校生の世界史の時間に、先生がピョートル大帝の逸話として、大帝は背が低く、いつも家臣から見下ろされているのが嫌で、厚底のハイヒールを履いていたことを話してくれました。その先生は、「視線の重要性」を人間関係の見地で話してくれたのです。

 しかし、実は、ピョートル大帝が、「ハイヒールを履いた最初の皇帝」ではないことが、後にわかりました。

 大帝は、身長203cmの大男であって、普通の人間と並ぶといつも首だけ高く出っ張っていたそうです。復活祭等の挨拶をする際には、背中が痛くなるほど身体を屈曲させて周囲にあわせたという逸話が残っているくらいです。

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

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◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

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◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。


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■【きょうの人】 0608 感誉上人(感誉存貞) 室町時代の浄土宗の僧で、増上寺の第10代法主  独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介

2023-06-08 00:03:00 | 【話材】 きょうの人06月

 

  【きょうの人】 0608 感誉上人(感誉存貞) 室町時代の浄土宗の僧で、増上寺の第10代法主

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

■ 感誉上人(感誉存貞) 室町時代の浄土宗の僧で、増上寺の第10代法主

 かんよぞんてい
 1522年(大永2年)3月-1574年6月7日(天正2年5月18日)

 室町時代の浄土宗の僧で、増上寺の第10代法主となり、檀林の掟制三十三条を定めた他、大長寺など、各地に浄土宗の寺院を建立しました。

 感誉存貞は、後北条氏重臣、大道寺政繁の甥で小田原に生まれました。

 小田原の伝長寺で出家した後、弘経寺で修行し、修行後は、小田原に戻り伝肇寺の住職となりました。

 感誉存貞は北条一族の信仰を集め、1548年(天文17年)には、北条綱成の開基により、東郡岩瀬村(現在の鎌倉市岩瀬)に、大長寺を建立しました。

 翌1549年(天文18年)には大道寺政繁の母、「蓮馨」の開基により、川越に蓮馨寺を建立するなど多数の寺を開きました。

 1563年(永禄6年)、増上寺に移り法主となり、増上寺では檀林の整備を行いました。3年後、増上寺の法主を大長寺二代目住職雲誉円也に譲り、その後は、地方を放浪し、1574年(天正2年)に大長寺へ戻り、同年5月18日に黄泉の国に行きました。

 

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 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

■ 感誉上人(感誉存貞) 室町時代の浄土宗の僧で、増上寺の第10代法主

 かんよぞんてい
 1522年(大永2年)3月-1574年6月7日(天正2年5月18日)

 室町時代の浄土宗の僧で、増上寺の第10代法主となり、檀林の掟制三十三条を定めた他、大長寺など、各地に浄土宗の寺院を建立しました。

 感誉存貞は、後北条氏重臣、大道寺政繁の甥で小田原に生まれました。

 小田原の伝長寺で出家した後、弘経寺で修行し、修行後は、小田原に戻り伝肇寺の住職となりました。

 感誉存貞は北条一族の信仰を集め、1548年(天文17年)には、北条綱成の開基により、東郡岩瀬村(現在の鎌倉市岩瀬)に、大長寺を建立しました。

 翌1549年(天文18年)には大道寺政繁の母、「蓮馨」の開基により、川越に蓮馨寺を建立するなど多数の寺を開きました。

 1563年(永禄6年)、増上寺に移り法主となり、増上寺では檀林の整備を行いました。3年後、増上寺の法主を大長寺二代目住職雲誉円也に譲り、その後は、地方を放浪し、1574年(天正2年)に大長寺へ戻り、同年5月18日に黄泉の国に行きました。

 

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■【きょうの人】 0607 ■ 役行者 飛鳥時代の呪術者 ■ 隆光 江戸時代中期の新義真言宗の僧  独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介

2023-06-07 00:03:00 | 【話材】 きょうの人06月

 

  【きょうの人】 0606 ■ 池 大雅 江戸時代の南画を中心として文人画家 ■ 相馬 哲平

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

■ 相馬 哲平(そうま てっぺい)

 初代相馬哲平は、1833年6月22日(天保4年5月5日に生まれ、1921年(大正10年)6月6日)に歿しています。

 日本の実業家、政治家、貴族院多額納税者議員で、北海道の多額納税者のひとりです。

 函館貯蓄銀行頭取、相馬合名代表社員等、北海道屈指の豪商で、箱館の発展に寄与しました。

  写真 函館・相馬邸
  http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/hokkaido/hokkaido-hakodate-motomachi2.htm


■ 池 大雅

 いけの たいが
 享保8年5月4日(1723年6月6日)- 安永5年4月13日(1776年5月30日)
 諱は勤(きん)、無名(ありな)、字は公敏(こうびん)、貨成(かせい)

 日本の江戸時代の南画を中心として文人画家であり、書家でもあります。

 雅号は、数多く名乗り、大雅堂(たいがどう)、待賈堂(たいかどう)、三岳道者(さんがくどうしゃ)、霞樵(かしょう)などがよく知られています。

 与謝蕪村とともに、日本の南画(文人画)の大成者といわれます。

 享保8年(1723年)、京都銀座役人の下役の子として生まれ、父を早くに亡くし経済的に苦しい中にもかかわりませず、6歳で素読を始め、7歳から本格的に唐様の書を学び始め、神童ともたたえられました。

 柳里恭(柳沢淇園)に才能を見出されました。中国の故事や名所を題材とした大画面の屏風、日本の風景を軽妙洒脱な筆致で描いた作品など、作風は変化に富んでいます。

 室町絵画や琳派、更には西洋画の表現を取り入れ、独自の画風を確立しました。

 大雅は、董其昌の「万巻の書を読み万里の路を行く」という文人画の方法論に敬重し、旅と登山を好んだようです。旅と登山の体験は、大雅の絵の特色である広々とした絵画展開と、リズム感のある描線となって生かされています。

 

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■【きょうの人】 0606 ■ 池 大雅 江戸時代の南画を中心として文人画家 ■ 相馬 哲平  独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介

2023-06-06 00:03:00 | 【話材】 きょうの人06月

 

  【きょうの人】 0606 ■ 池 大雅 江戸時代の南画を中心として文人画家 ■ 相馬 哲平

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

■ 相馬 哲平(そうま てっぺい)

 初代相馬哲平は、1833年6月22日(天保4年5月5日に生まれ、1921年(大正10年)6月6日)に歿しています。

 日本の実業家、政治家、貴族院多額納税者議員で、北海道の多額納税者のひとりです。

 函館貯蓄銀行頭取、相馬合名代表社員等、北海道屈指の豪商で、箱館の発展に寄与しました。

  写真 函館・相馬邸
  http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/hokkaido/hokkaido-hakodate-motomachi2.htm


■ 池 大雅

 いけの たいが
 享保8年5月4日(1723年6月6日)- 安永5年4月13日(1776年5月30日)
 諱は勤(きん)、無名(ありな)、字は公敏(こうびん)、貨成(かせい)

 日本の江戸時代の南画を中心として文人画家であり、書家でもあります。

 雅号は、数多く名乗り、大雅堂(たいがどう)、待賈堂(たいかどう)、三岳道者(さんがくどうしゃ)、霞樵(かしょう)などがよく知られています。

 与謝蕪村とともに、日本の南画(文人画)の大成者といわれます。

 享保8年(1723年)、京都銀座役人の下役の子として生まれ、父を早くに亡くし経済的に苦しい中にもかかわりませず、6歳で素読を始め、7歳から本格的に唐様の書を学び始め、神童ともたたえられました。

 柳里恭(柳沢淇園)に才能を見出されました。中国の故事や名所を題材とした大画面の屏風、日本の風景を軽妙洒脱な筆致で描いた作品など、作風は変化に富んでいます。

 室町絵画や琳派、更には西洋画の表現を取り入れ、独自の画風を確立しました。

 大雅は、董其昌の「万巻の書を読み万里の路を行く」という文人画の方法論に敬重し、旅と登山を好んだようです。旅と登山の体験は、大雅の絵の特色である広々とした絵画展開と、リズム感のある描線となって生かされています。

 

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■【きょうの人】 0605 ■ 重源 没 父は、柿本人麻呂とも血縁のある紀氏一族  独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介

2023-06-05 00:03:00 | 【話材】 きょうの人06月

 

  【きょうの人】 0605 ■ 重源 没 父は、柿本人麻呂とも血縁のある紀氏一族

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

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■ 重源 没 父は、柿本人麻呂とも血縁のある紀氏一族


 ちょうげん
 保安2年(1121年)- 建永元年6月5日(1206年7月12日)


 俊乗房重源は、1121年(保安二年)に京都に生まれました。父は、柿本人麻呂とも血縁のある紀氏一族の紀季重です。

 13歳で醍醐寺に入って密教を学び、1167年(仁安2年)入宋(にっそう:中国宋を訪問)し、翌年帰国しました。

 1180年(治承4年)平重衡によって大仏殿が焼かれるなど、東大寺の多くの伽藍が焼失したが、翌年60歳を過ぎた彼が造東大寺の大勧進職に任ぜられ、10数年の歳月をかけて東大寺の再興を成し遂げました。再建に当って、大仏様(だいぶつよう)と呼ぶ宋風建築様式を取り入れ、再建の功により大和尚の号を受け、1206年(健永元年)86歳で入滅した。

 

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■【きょうの人】 0604 ■ 最澄(伝教大師)■ 聖武天皇  独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介

2023-06-04 00:03:00 | 【話材】 きょうの人06月

 

  【きょうの人】 0604 ■ 最澄(伝教大師)■ 聖武天皇

 

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■ 聖武天皇

 しょうむてんのう
 701年〈大宝元年〉-756年6月4日〈天平勝宝8年5月2日〉)

 日本の第45代天皇(在位:724年3月3日〈神亀元年2月4日〉- 749年8月19日〈天平勝宝元年7月2日〉で、諱は首(おびと)、尊号(諡号)を天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)、勝宝感神聖武皇帝(しょうほうかんじんしょうむこうてい)、沙弥勝満(しゃみしょうまん)ともいいます。

 文武天皇の第一皇子で、母は藤原不比等の娘・宮子です。

 父・文武天皇に、7歳で死別、母の宮子も心的障害に陥ったため、その後は長く会うことはありませんでした。このため、文武天皇の母である元明天皇(天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位しました。

 最終的に聖武天皇の後宮には他に4人の夫人が入りましたが、光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等・県犬養三千代のいずれか、または両人の血縁の者でした。

 天平9年(737年)に天然痘の大流行が起こり、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが病死するという惨事に見舞われ、急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じて辛うじて政府の体裁を整えることになりました。

 天平年間は、災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出しています。

 病弱でありましたが、その功績は、後世でも認められています。



■ 最澄(伝教大師)

 さいちょう、でんぎょうだいし
 神護景雲元年(767年)8月18日-弘仁13年6月4日(822年6月26日)

 平安時代の僧で、天台宗の開祖であり、伝教大師として広く知られています。

 生地は、近江国滋賀郡古市郷(現:滋賀県大津市・坂本)で、生源寺で、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)です。

 生年に関しては天平神護2年(766年)説も存在します。

 十二歳で比叡山に登り、研究修行を積みました。

 延暦23年に空海と共に、中国に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建てて天台宗の開祖となりました。

 なお、最澄に唱える言葉は「南無宗祖根本伝教大師福聚金剛」です。

 

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■【きょうの人】 0603 細川 幽斎(藤孝) 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、大名、歌人  独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介

2023-06-03 06:03:00 | 【話材】 きょうの人06月

 

 

  【きょうの人】 0603 細川 幽斎(藤孝) 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、大名、歌人

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

 細川 幽斎(藤孝) 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、大名、歌人  ほそかわ ゆうさい / 細川 藤孝(ほそかわ ふじたか) 天文3年4月22日(1534年6月3日)-慶長15年8月20日(1610年10月6日) 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、大名、歌人、幼名は、万吉(まんきち)で、元服して藤孝を名乗ります。幽斎は雅号で、法名を玄旨といいます。 初め室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、その死後は織田信長の協力を得て15代将軍足利義昭の擁立に尽力しました。 後に、義昭が信長に敵対して京都を逐われますと、信長に従って名字を長岡に改め、丹後国宮津11万石の大名となりました。 本能寺の変の後、信長の死に殉じて剃髪して家督を忠興に譲りました。 しかし、その後も豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世大名肥後細川家の礎を築きました。 また、二条流の歌道伝承者三条西実枝から古今伝授を受け、近世歌学を大成させた当代一流の文化人でもありました。 享年77(満76歳没)で、京都市左京区南禅寺福地町の瑞竜山太平興国南禅寺の塔頭寺院である天授庵に墓があります。

 【経営コンサルタントの独り言】

 足利幕府を支えたり、信長、秀吉、家康等に重用され、近世大名肥後細川家の礎を築きました。  細川元首相にまで繋がってきているのですね。  文京区に肥後細川庭園(旧名:新江戸川公園)があります。    http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/tokyo/bunkyou-shinedogawapark.htm

 

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■【きょうの人】 0602 ■尾形光琳 江戸の画家 ■呑龍 子育て ■専誉 真言宗豊山派の第一祖

2023-06-02 06:33:00 | 【話材】 きょうの人06月

 

  【きょうの人】 0602 ■尾形光琳 江戸の画家 ■呑龍 子育て ■専誉 真言宗豊山派の第一祖

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

■ 尾形光琳 紅白梅図他の国宝で知られる江戸時代の画家
 おがた こうりん
 万治元年〈1658年〉-享保元年6月2日〈1716年7月20日〉
 本名は尾形 惟富(おがた これとみ)。通称は市之丞。

 尾形光琳は、江戸時代中期の画家、工芸家で、琳派の創始者とされる人物です。
 京都の呉服商の次男として生まれ、王朝文化に親しみながら、明るく華やかな色彩と独創的な意匠で多くの作品を残しました。光琳の作品は「光琳模様」と呼ばれるほど、日本の美意識に大きな影響を与えました。
 光琳は屏風や小袖、蒔絵など様々な媒体に絵を描きましたが、紅白梅図、燕子花図屏風は国宝に指定されている名作です。光琳は30歳代前半に光琳と改名し、44歳で法橋の位を得ています。代表作の『燕子花図』は法橋位受領以前の作品のようです。
 光琳の作品には、制作年代のはっきりわかる作品は少なく、画風や、画面に捺されている印章などから制作年が推定されています。
 光琳と並び称される俵屋宗達は、生没年未詳の人物で、直接的な師弟関係はないのですが、『風神雷神図』『槙楓図』のように宗達の原画を題材にした作品もあります。このことから、光琳が宗達に学ぶ意識のあったと推定されます。
 江戸下向時代には、雪村の絵に感銘を受けたようで、雪村の絵を模写したものが数点残っています。

 尾形光琳の作品は、明るく華やかな色彩と独創的な意匠が多く、日本の美意識に大きな影響を与えたといえます。
 菖蒲図屏風の制作に見られるように、生家の染色業での型紙を、利用するなど、その手法の工夫は日本の伝統からの変化も見られます。

 

■ 専誉 真言宗豊山派の第一祖
 せんよ
 享禄3年(1530年)- 慶長9年5月5日(1604年6月2日)
 室町時代の僧で、「専誉僧正(せんよそうじょう)」の名で知られ、真言宗豊山派の第一祖です。
 和泉国大鳥郡(現・大阪府堺市)において、石垣氏に生まれ、天文11年(1542年)に出家し、専誉と称するようになりました。
 天正12年(1584年)に根来寺学頭に就任し、羽柴秀吉による根来焼き討ち後、高野山・醍醐寺・和泉国分寺に移りました。その後、豊臣秀長に招聘されて長谷寺に入山し、慶長9年(1604年)5月5日、75歳で入寂しました。

■ 呑龍
 どんりゅう
 弘治2年4月23日(1556年6月2日)- 元和9年8月9日(1623年9月3日)

 群馬県太田市の浄土宗大光院(だいこういん)、正式には「義重山大光院新田寺」という寺院があります。通称「子育て呑龍(こそだてどんりゅう)」もしくは「呑龍様(どんりゅうさま)」と親しまれています。
 真偽の程は定かでありませんが、徳川家康は源氏の流れを汲む新田義重の末裔であるといいます。
 慶長18年(1613年)、家康は呑龍を招聘して大光院を創建させました。境内裏には、新田義重や呑龍の墓があります。義重は九条兼実に従い法然上人に帰依しました。
 大光院は、もともとは建久6年(1195年)に、寺尾城内に建立され、家康は観智国師・土井利勝・成瀬正成に遺跡を探させ、墓石と礎石などをここに移させました。
 当時、多くの子どもが間引きといわれ、殺されていいましたが、呑龍は、これを悲しみ、これらの子どもを弟子として引き取って育てたため、後世の人々から「子育て呑龍」と慕われました。
 話は、昭和の第二次大戦前になりますが、中島飛行機で開発された百式重爆撃機という航空機がありましたが、その愛称「呑龍」でした。

 

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◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

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◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

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■【きょうの人】 0601 徳川 家康 没 主君を変えながらトップに立つ  独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介

2023-06-01 00:03:00 | 【話材】 きょうの人06月

 

  【きょうの人】 0601 徳川 家康 没 主君を変えながらトップに立つ

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。

 

■ 徳川 家康 没 主君を変えながらトップに立つ

 とくがわ いえやす、旧字体:德川 家康
 天文11年12月26日(ユリウス暦1543年1月31日、遡及グレゴリオ暦1543年2月10日)- 元和2年4月17日(グレゴリオ暦1616年6月1日)
 主君 今川義元 → 今川氏真 → 足利義昭 →織田信長→ 豊臣秀吉→豊臣秀頼

 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・戦国大名で、天下人と呼ばれます。安祥松平家9代当主で、徳川家や徳川将軍家、御三家の始祖です。

 家系は、三河国の国人土豪・松平氏、旧称は松平元康(まつだいら もとやす)で、戦国時代に終止符を打ち、朝廷より征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開き、三英傑のひとりといわれます。

 幼名は、竹千代、通称は次郎三郎で、のちに蔵人佐とも呼ばれていたようです。諱は今川義元より元信(もとのぶ)を授かり、元康とも名乗っていましたが、今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改めました。

 本姓は、私的には源氏を称していましたが、徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し、豊臣政権では豊臣氏を称した形跡もあるほど、ブランディングを目的として苗字にはこだわりました。天正16年(1588年)以降に源氏を再び称しています。

 このことから、家康の出自は、それほど良いとは言えず、それを糊塗するための戦略でしょう。そこから読み取れることは、一般に知られるほどには肝が据わった男ではなく、小心な面を持っていたのではないかと、勝手に、独断と偏見でもって感じています。

 家康につきましては、多くを語る必要がないほど、よく知られています。

 

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