【きょうの人】 0413 石川啄木忌 歌人、詩人 ■ 徳川 夢声 無声映画時代の弁士であり、漫談家、作家、俳優 ■ 池 大雅 江戸時代の文人画家
独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。
そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。
■ 石川啄木忌 歌人、詩人
いしかわ たくぼく
1886年(明治19年)2月20日-1912年(明治45年)4月13日)
日本の歌人、詩人で、本名は「石川 一」は、結核によりわずか27歳でなくなりました。
岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村(現在の盛岡市日戸)に、曹洞宗日照山常光寺住職の父・石川一禎(いってい)と母・カツの長男として生まれました。
1898年(明治31年)12歳、岩手県盛岡尋常中学校(啄木入学の翌年、岩手県盛岡中学校と改名、現盛岡一高)で学びました。同校の三年先輩には金田一京助が、また、10年後には宮沢賢治が入学します。
中学生時代に、のちに妻となる堀合節子や、親友の岡山不衣、金田一京助らと知り合うことになります。
『明星』を読んで与謝野晶子らの短歌に傾倒し、また上級生の野村長一(のちの野村胡堂)や及川古志郎らの影響を受け、文学への志を抱きました。短歌の会「白羊会」を結成したのもこの頃です。
1901年(明治34年)12月から翌年にかけて友人とともに『岩手日報』に短歌を発表し、啄木の作品も「翠江」の筆名で掲載されました。これが初めて活字となった啄木の短歌だったのです。
1904年(明治37年)1月8日、盛岡にて堀合節子と将来の話をし、後に結婚します。
啄木は盛岡において落ち着いた生活が続きましたが、1907年(明治40年)1月、函館の文芸結社・苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)より原稿の依頼があり松岡蕗堂らと知遇を得ました。
1907年5月5日、函館に移り、5月11日から5月末日まで函館商工会議所の臨時雇いで生計を立てます。函館区立弥生尋常小学校の代用教員となりました。代用教員在職のまま函館日日新聞社の遊軍記者も兼ねましたが、函館大火により勤務先の小学校・新聞社がともに焼失してしまいました。
近く創刊される野口雨情がいた小樽日報社の『小樽日報』記者となるも、12月には社の内紛に関連して暴力をふるわれ退社しました。雨情の起こした主筆排斥運動に荷担しましたが、主筆側の巻き返しで雨情一人が退社する形になりました。
1908年(明治41年)1月4日、小樽市内の「社会主義演説会」で当時の社会主義者、西川光二郎の講演を聴き、西川と面識を得て、釧路新聞 (2代目)(現在の北海道新聞社)に編集長として勤務しますが、上司への不満と東京での創作活動へのあこがれから、釧路を離れる決意をしました。
1909年(明治42年)1月1日、当用日記に「今日から24歳(数え年)」と記します。『スバル』創刊、発行名義人になります。3月1日に『東京朝日新聞』の校正係となります。
1910年5月下旬から6月上旬にかけて小説『我等の一団と彼』を執筆します。6月3日には明治天皇の暗殺を計画したとされる幸徳秋水・管野スガら社会主義者・無政府主義者が多数検挙された大逆事件が発生しました。
1930年(昭和5年)京子が妊娠中に急性肺炎を起こし、二児を残して24歳で死去、その2週間後には房江も肺結核により19歳で急逝しています。
啄木の詩などからは、想像のできない波乱の人生だったように思えます。
■ 池 大雅 江戸時代の文人画家
いけの たいが
享保8年5月4日(1723年6月6日)- 安永5年4月13日(1776年5月30日)
諱は勤(きん)、無名(ありな)、字は公敏(こうびん)、貨成(かせい)
日本の江戸時代の南画を中心として文人画家であり、書家でもあります。
雅号は、数多く名乗り、大雅堂(たいがどう)、待賈堂(たいかどう)、三岳道者(さんがくどうしゃ)、霞樵(かしょう)などがよく知られています。
与謝蕪村とともに、日本の南画(文人画)の大成者といわれます。
享保8年(1723年)、京都銀座役人の下役の子として生まれ、父を早くに亡くし経済的に苦しい中にもかかわりませず、6歳で素読を始め、7歳から本格的に唐様の書を学び始め、神童ともたたえられました。
柳里恭(柳沢淇園)に才能を見出されました。中国の故事や名所を題材とした大画面の屏風、日本の風景を軽妙洒脱な筆致で描いた作品など、作風は変化に富んでいます。
室町絵画や琳派、更には西洋画の表現を取り入れ、独自の画風を確立しました。
大雅は、董其昌の「万巻の書を読み万里の路を行く」という文人画の方法論に敬重し、旅と登山を好んだようです。旅と登山の体験は、大雅の絵の特色である広々とした絵画展開と、リズム感のある描線となって生かされています。
■ 徳川 夢声 無声映画時代の弁士であり、漫談家、作家、俳優
とくがわ むせい
1894年4月13日 - 1971年8月1日
無声映画時代の弁士であり、漫談家、作家、俳優で、本名は、福原駿雄(ふくはら とお)です。
ラジオ・テレビ番組などをはじめ、多方面で活動した日本の元祖マルチタレントとも言える人物です。
好きな男性のことを「彼氏」という表現を造語し、「恐妻家」もその一つです。
日本放送芸能家協会(現・日本俳優連合)初代理事長で、いわゆる「3つの袋」と言われます。
結婚式のスピーチの定番ともいえますスピーチという行為やそこでの言葉や表現を作った人とも言われているほど、結婚式でのスピーチも多く、多くの表現を使っています。
何気なく使っている、私たちの言葉も、彼が造語したり、口癖にしたりしている言葉かもしれません。
◆ 【きょうの人】 バックナンバー
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【 注 】
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