正岡子規が近代への改革を果たした短歌、俳句の世界だが、その短歌に現代の息吹を吹き込んだのは、石川啄木です。
私の好きな短歌で
こみ合へる 電車の隅に ちぢこまる
ゆふべゆふべの 我のいとしさ
などは、残業につかれて何とか乗り込んだ地下鉄が満員でため息ついている自分の心象風景にぴったりです。明治の短歌とはとても思えません。現代に十分通じます。

啄木は短歌の革命児としてその早熟な天才を如何なく発揮するのですが、その短い生涯は世間の常識からみれば、今話題の三又又三以上のどうしようもないくず野郎、ゲスの極みでしょう。
学生時代から高慢ちきで我慢できずに中退。小学校の教師をしても続かない。結婚も早いのですが、家庭を顧みることほとんどなく、一人、函館、札幌、釧路と転々としている。それなりの職に就いた時があったのですが、文芸で身を立てたいと長く続かず東京へと出ていく。その間、いろいろな人の好意を踏みにじり裏切り、浪費をし、借金をしては踏み倒し、芸者遊びに入れ込んでいる。給料の前借など当たり前で、芸者遊びの花代も払えずになじみの芸者に肩代わりしてもらったりし、その間に家族へは仕送りもしていない。
それでも妻の節子は啄木は絶対にいつか認められると信じその才能を認めているし、周りの人も啄木の天賦の才を認めて何かと金銭面で援助しているのですが、啄木自身はあまり感謝している風情もない。
私の近しい人がこんな人ならあまりお近づきにならないようにするでしょう。節子の親なら即離縁させてしまいたいものです。
啄木は短歌では身を立てれないと思い小説に何度も挑戦しているのですが、どうも小説では大した作品は残していないし、当時の評価もなきに等しかったみたいです。短歌はあとからあとから心に沸いてくるみたいで、出版された歌集は「一握の砂」と死後出版された「悲しき玩具」だけですが、作ったという記録があるだけで失われた短歌が何倍かあるみたいです。まさに短歌の神様が革命をもたらすために地上に短期間だけ派遣した天才です。
啄木の重要な作品には「ローマ字日記」があるのですが、ここには現代人の苦悩が表現されています。啄木は死後出版するなどと言う話があるかもしれないが燃やすようにと言っていたのですが、その実、きれいに清書してあることなど人の目に触れて出版されることを想定していた、ひょっとしたら心の奥底で望んでいたのではないでしょうか。それにしては赤裸々に不都合なことも書いてあったみたいですけど、そこはうまく取捨選択されていた面もあるみたいです。ところでこのローマ字日記が世に残っているのは、遺言通りに燃やしてしまえという人がいる中、守り通した函館図書館の司書がいたからだそうで、原本は今は函館図書館の宝物となっています。
啄木の一生を見ると、父との確執や母の溺愛、食べるものにも事欠くような生活苦と世に入れられない焦燥。それでいて少しお金が入ると高価な本を買い酒を飲み遊郭に行く。さらには自分の行いは顧みることなく妻と長年援助してくれていた友人の仲を疑い離縁を言い渡す。
もうハチャメチャです。それを含めて石川啄木と言えるのですが、でもそこにはまっすぐ太宰治に通じる道があります。太宰は啄木が書けなかった小説で現代人の苦悩を表現したのです。
それにしても啄木は26歳で夭折している。当時としてもあまりにも早い死だった。「一握の砂」が出版されてから評判となり名声を得つつあったのだが、経済的な評価はほとんど得ることができず、薬代にも苦労するような極貧のままの生活での最期だった。短歌の神様は啄木の才能のすべてを短歌の才にしてしまい、それ以外のものを与えることができなかったのか。
もはや啄木の倍以上の人生を生き、なんの才もなくひたすら呆然としている年月を送った我が身の切なさにちょっとした安どの気持ちを抱くのです。
私の好きな短歌で
こみ合へる 電車の隅に ちぢこまる
ゆふべゆふべの 我のいとしさ
などは、残業につかれて何とか乗り込んだ地下鉄が満員でため息ついている自分の心象風景にぴったりです。明治の短歌とはとても思えません。現代に十分通じます。

啄木は短歌の革命児としてその早熟な天才を如何なく発揮するのですが、その短い生涯は世間の常識からみれば、今話題の三又又三以上のどうしようもないくず野郎、ゲスの極みでしょう。
学生時代から高慢ちきで我慢できずに中退。小学校の教師をしても続かない。結婚も早いのですが、家庭を顧みることほとんどなく、一人、函館、札幌、釧路と転々としている。それなりの職に就いた時があったのですが、文芸で身を立てたいと長く続かず東京へと出ていく。その間、いろいろな人の好意を踏みにじり裏切り、浪費をし、借金をしては踏み倒し、芸者遊びに入れ込んでいる。給料の前借など当たり前で、芸者遊びの花代も払えずになじみの芸者に肩代わりしてもらったりし、その間に家族へは仕送りもしていない。
それでも妻の節子は啄木は絶対にいつか認められると信じその才能を認めているし、周りの人も啄木の天賦の才を認めて何かと金銭面で援助しているのですが、啄木自身はあまり感謝している風情もない。
私の近しい人がこんな人ならあまりお近づきにならないようにするでしょう。節子の親なら即離縁させてしまいたいものです。
啄木は短歌では身を立てれないと思い小説に何度も挑戦しているのですが、どうも小説では大した作品は残していないし、当時の評価もなきに等しかったみたいです。短歌はあとからあとから心に沸いてくるみたいで、出版された歌集は「一握の砂」と死後出版された「悲しき玩具」だけですが、作ったという記録があるだけで失われた短歌が何倍かあるみたいです。まさに短歌の神様が革命をもたらすために地上に短期間だけ派遣した天才です。
啄木の重要な作品には「ローマ字日記」があるのですが、ここには現代人の苦悩が表現されています。啄木は死後出版するなどと言う話があるかもしれないが燃やすようにと言っていたのですが、その実、きれいに清書してあることなど人の目に触れて出版されることを想定していた、ひょっとしたら心の奥底で望んでいたのではないでしょうか。それにしては赤裸々に不都合なことも書いてあったみたいですけど、そこはうまく取捨選択されていた面もあるみたいです。ところでこのローマ字日記が世に残っているのは、遺言通りに燃やしてしまえという人がいる中、守り通した函館図書館の司書がいたからだそうで、原本は今は函館図書館の宝物となっています。
啄木の一生を見ると、父との確執や母の溺愛、食べるものにも事欠くような生活苦と世に入れられない焦燥。それでいて少しお金が入ると高価な本を買い酒を飲み遊郭に行く。さらには自分の行いは顧みることなく妻と長年援助してくれていた友人の仲を疑い離縁を言い渡す。
もうハチャメチャです。それを含めて石川啄木と言えるのですが、でもそこにはまっすぐ太宰治に通じる道があります。太宰は啄木が書けなかった小説で現代人の苦悩を表現したのです。
それにしても啄木は26歳で夭折している。当時としてもあまりにも早い死だった。「一握の砂」が出版されてから評判となり名声を得つつあったのだが、経済的な評価はほとんど得ることができず、薬代にも苦労するような極貧のままの生活での最期だった。短歌の神様は啄木の才能のすべてを短歌の才にしてしまい、それ以外のものを与えることができなかったのか。
もはや啄木の倍以上の人生を生き、なんの才もなくひたすら呆然としている年月を送った我が身の切なさにちょっとした安どの気持ちを抱くのです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます