生まれてこの方、退屈やと思った記憶がないねんなぁ。
やりたいことは山のようにあるし、できれば一日50時間くらい欲
しいし。
でも今日ふと思った。そんな俺は退屈っていう感情を一度も味わ
ったことがないんやと。
退屈やから悪いとか、退屈してないからいいとかいうんやないけど、
せっかく世間一般にあるものを、一度も味わったことがないなんて、
なんかごっつもったいない気がしてきたのよね。
でもどうやったら退屈できるのかと考えてたら退屈できへんし、
もし退屈できたとしても、その時はやることがないということやねん
から、退屈した気持ちをブログに書くことができん。
すると俺は生涯「退屈」を語れないということになる。
というとそれは退屈やんか。
ちゅうと、俺は今退屈してて、願いは叶えられてるの?
だとすると結構忙しいんですけど、退屈って。
「やはり野におけれんげ草」
何十年も前から、俺が一番大好きな言葉。
人はそれぞれに生きるのに最も適した場所があり、
見つけられなければその場所を創り出さなければいけない。
れんげ草のような存在も、花が咲き誇る野原もどんどん減
っていく世の中でも、俺にとってこの言葉の価値はなんの変
わりもない。
言葉というのはそういうものだ。
ジダンは野原に戻った。
言われる前にしなさい、とよく親に怒られたなぁ。
あのスズカ容疑者がまた証言を変えて、最初から言われてたように
やっぱり自分の子供も殺めていた可能性が高くなっている。
ただ、ここまで話が進んできたのは、警察がマスコミをスピーカーと
する世間のブーイングを受けて仕方なく動き始めたからで、本来
警察が先にすべき捜査は今までなおざりにされていたわけや。
物心がついて色々なことを理解し始めた子供時代に教える、
「言われる前にしなさい」
こんなことを警察に向かって言わなあかん時代がくるなんて誰が
予想できたやろう。
陪審員制度で、裁判は民間の意見が反映される体制への転換を
目指している。警察にもそんな制度が必要とちゃうかな。大阪の
おばちゃんとかに捜査依頼したら、それこそ言われる前になんぼでも
調べよるで。
でも、俺の場合は、言われる前にしたことにロクなことはない。
もしそんな制度ができて俺に依頼がきたら、俺はまず自分の身の回
りを潔白にせなあかんけどね。
今日、パソコンの古いファイルを整理してたら、下の娘が成人になった時
書いた文が見つかった。ちょっと時期外れではあるけれど、ジダンの頭突き
ばっかりでもそれこそ頭が痛くなるので、今日はこれを載せようと思います。
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成人式。昨今それは、ばかばかしさの代名詞みたいなものになった。
人前で、公道で、暴れる、叫ぶ、飲む、練り歩く。でも“はったり”の大切さ
なんかまだ知る由もないから、つっぱりきれずにTVにピースサインで写る。
目立ちたいくせに、お揃いの衣装で行動もお揃いやから目立たない。
金魚のほうがちょっとだけ賢い、たぶん。
まぁ、悪い印象は、中国人の日本批判みたいに、仲間を募って、最後は
街宣車に乗って大挙してやってくるから、大多数の現代のフツーの成人達
の声は容易にかき消されてしまう。だからこんな人はほんの一握りで、皆が
皆こうじゃないことは分かるけど、皆が皆こうだと言われても納得できたりす
るから、今の世は恐ろしい。
まぁ、振り返って見れば自分も偉そうに言えるような自覚はなかったし、とに
かく目立ちたいって考え方がなくもなかった。精神的にも幼かったし、警察
に捕まるようなマネをする、鈍角な勇気も持ち合わせてはいなかった。
悲しいことに今でも成人とは思われへんねんからお笑いにもならない。
ただ、その頃と違うのは子供を持つ父親になっていることだ。
この1月、我が家の次女が成人になった。
おなかの中にいる時から、とにかくよく動く子で、妻のおなかの中で“でんぐり
がえし”をしたり、おなかを蹴飛ばしたり、二人でこの子の動き方は尋常じゃ
ないなと話していたその暴れん坊が。
やはり、おなかの中にいた時の予想は当たっていた。幼少の頃からとんでも
ないいたずらっ子で、抱いている時間より、叩いている時間の方が長かった。
水が大好きで、洗面台にティッシュを詰めて水を出しっぱなしにして、家中
の床にパナマ運河を作ったり、便器に手を突っ込んでウン気をつかんだり。
家の中でも外に出ても、とにかく水を求め、水を見つけるとまさに水を得た
魚のごとく遊んだ、というか、1ccの水でも泳いでいた。どんなに言い聞かせ
ても、おしりが真っ赤になるまでたたいても、結局翌日にはまた、我が家は
大阪のベニスと化していた。
まぁ、そんな調子で中学・高校と過ごした娘も、卒業して社会人になった頃
からようやく落ち着きをいうものを身に纏うようになってきて、成人式には、小
さい頃はどんなに着せようとしてもフギャー!ウギャー!と断末魔の叫びを発
し、暴れて全く着ようとしなかった着物を着ると言い出した。幸い前年に長女
が同じく成人式で着た振袖があったので、それを着せることにした。本人も気
に入っていたようだったし。
式当日。髪をセットし着付けも終わった娘に、妻は、振袖っちゅうのはとにか
く高価なので、汚れや臭いにはくれぐれも気をつけるように、焼肉屋さんとか、
たばこの臭いのたまる場所に長居をするようなマネはしちゃダメよ、とコンコンと
言い聞かせていた。その頃、娘はやはり三つ子の魂、もう着物は窮屈だの
しんどいだの、そんなことより早く脱ぐのだというどこで習ったか分からないストリ
ッパー精神も加わって、だから振袖なんかイヤなのよモードに突入していたの
だが。
まぁ、なんだかんだと言いながらも、とにかくそれで娘はご丁寧に市の方が用
意してくださった成人式ルーティーンを終えて戻ってきた。
ところがなんと!あれほど注意して着るようにいった振袖に“たこ焼き”の臭い
がついている!明石産とオホーツク産のたこの臭いを嗅ぎ分ける大阪人だか
らこそ分かる、お好み焼きとは違う、あのたこ焼きの臭いが!
ここはもう飯島直子と待ち合わせをしていても、直子を待たせて父親として
の威厳を示すべきところである。さっそく、こう言って話を始めた。
俺:「あれだけ言ったのになんでたこ焼きの臭いなんかつけてきたんや!」
娘:「いつもお世話になってるたこ焼き屋のおばちゃんが振袖をみたい、ていう
から見せにいってきた」
父:「たこ焼きの臭いがつくのが分かっててか?」
娘:「うん」
父:「えらーい!」
何のことはない、俺は怒るどころか娘を褒めてしまうことになったのだ。
娘は親の注意を忘れていたわけではなく、着物にたこ焼きの匂いがつくことを
知らなかったわけでもなかった。それでもあえて、お世話になった人の心に応
えようとした。そういう心を持てる人なら、成人と呼んでもいいと思った。振袖
なんてどうでもよかった。賞賛に値すると思った。
あの手のかかった娘が。魚ちゃうかとまで思った娘が、成人になった。
親のいうことを聞かない、ということがうれしくて涙が出るとは思ってもみなかった。
今年の成人式の思い出は、たばこでもなく、ましてや香水でもなく、たこ焼き
の匂いのついた振袖。
そんなんあるか?ま、ええか、大阪人やし。
とにかく、俺は記憶が苦手。学生の頃、アタマは記憶する
ことよりも考えることに使え、という言葉を知ってからは、ま
すますそれに磨きがかかり、もう大物政治家なみの勢いで
何でも忘れるようになった。
今日もそれを裏付ける出来事があった。
会社の用事で封書を出す必要があったので、帰り道に出
そうと、忘れないようカバンの横ポケットに見えるように入れ
ておいた。それが功を奏し、会社をでる時には、これを出さ
なければ、としっかり思い出すことができたのだが・・・
ひとつのハードルをクリアした俺は、会社を出た時に意気
揚々とポストを探しながら歩くことにした。
でもその5秒後、「暑い」と思った瞬間にそれを忘れ、御堂
筋の最速男になることだけを考えていた。
梅田の駅に着き、電車に座った時にふとカバンの横ポケッ
トを見ると、封筒が入っている。「あちゃー、しもた」と思い、
仕方ないので高槻の駅に着いたら出そうと誓った。
でもその5秒後「ああ涼しい」と思った瞬間にそれを忘れ、
となりのおねえさんに、汗ぼたぼたで気持ち悪い人やと思
われてへんやろか、ということだけを考えていた。
家に帰ってみると当然のごとくカバンに封筒が入っている。
もはや尋常ではないよなこの忘却力は。これはもしかする
とアル○ハイ○ーもカバンに入ってるのか?
かなり前、自分たちのライブのポスターに、
「なんでも忘れる人は、いつでも感動できる」
という、中年のお客さんに向けたコピーを書いたことがあった
けど、そうそう感動しなくても、ちゃんと覚えてるほうがよさそ
うな気がしてきましたわ。
なんたって人生・社会には競争がつきもの。
俺にはその競争でほとんど負けたことがない種目?がふた
つある。
まずひとつは、ご存知「早食い」。
これは、6/1の「早食いの経済効果」の中で書いたので内
容は省かせてもらうとして。
もうひとつは、きっとご存知ない「早歩き」。
もう2ヶ月近くなるかな、会社→本町間の約30分を歩い
て帰ってる訳やけど、その間、人を追い越すことはあっても、
追い抜かれた覚えがない。
それがなんなん?と言われれば、どーでもええことです、と
答えるしかない、しょーもないことやねんけど、とにかく俺は
本町→梅田間では、"最も速い男"に違いないのだ。
どっちも勝負を仕掛けてくる相手がおらんやん、なんてこと
は言われなくても分かっている。それでも抜かれないことが
なんとなく勝った気分になる自分がとても悲しいということを
言いたい。
しかも、それでも最速はゆずらん、と思う俺はもっと悲しく、
しかし、ここまでくるとまた一方で自分がちょっと可愛い奴に
も思えてくるのが、悲しさを通り越して自分自身でも笑って
しまうのだ。
競争社会ではやはり自分に勝つことが大切である。
毎日世界中で色々なことが起こるけど、これには驚かずに
おれん、という話題がたまにある。
今日の場合やと、それはなんちゅうてもジダンの頭突きでしょ、
やっぱり。
彼は素晴らしいプレーヤーではあるけれど、結構キレやすく、
以前にも頭突きをしたり、相手を踏んづけたりして退場にな
った経暦があるらしいので、「頭突き」という危害の加え方
にことさらのように驚くのでは、北朝鮮のミサイルに何度も驚
いているようなもので、驚き方が間違っている。
ではどのように驚くのが正しいのかと言えば、
「何で」したかという理由を知って、それに驚くことである。
では早速正しく驚いてみよう。
俺が考えるに、イタリアにはセリエAでジダンとプレーした選手
がたくさんいるので、イタリアの選手は、「これを言えばジダンは
キレる」という、いわば、"悪魔の言葉"を知っていた。
試合はもう、苦しい苦しい延長戦の後半に入っている。お互
い、どうにかして勝ちたいが決めてがない、どうしよう・・・
そこで「決めて」を思いついたのがイタリアだった。
「ジダンがいなくなれば勝てる。しかも彼を退場に追い込む方
法があるやん」
イタリアはとにかく勝つために、なりふりかまわずその「悪魔の言
葉」を使い、彼を逆上させて退場に追い込むことにしたのであ
る。
チャンスは今だ。味方もそうだが、ジダンも体力・気力共限界
が近く冷静な判断ができないはず。彼を怒らせるには今を逃
してはない。
そして、そのとってもイヤな役回りを命ぜられたのが、マテラッツ
ィ選手。チームメイトはこう思った。ゴールを決めてごきげんな
彼はちょっと悪モンに仕立てあげられてもヘッチャラなはず。コイ
ツなら、このイヤな仕事もやり遂げるはずだと。
そして彼にこう言った。
「ハゲ」って言うたれ。
なんたってごきげんなマテラッツィはチームのため、きちんとそれに
応え、
「お前、後ろから見たらこらまたえげつないハゲやんけ」
とよけいなアレンジまで加え、しかも大阪弁も交えながら言い
切った。
予想通り、さすがのジダンももう体力気力共限界だった。
「ハゲ頭の威力がどんなもんか教えたらぁ、うらぁ」
となるのが、哲学好きなフランス人の中の体力自慢の人がキレ
た時にあるべき姿であり、当然の行動なのである。
かくして、イタリアの作戦は大成功。
これが、「何で」の真実。あー、びっくりした。
でもここで、俺は言いたい。俺ならハゲと言われた瞬間に笑いを
とってみせたよ。世界のスーパースターもハゲの世界ではまだまだ
俺の足元にも及ばんわい。
ほんとに感動したことっていうのは、何十年前のことでも、数年に
一度思い出すもの。昨日、庭に咲いてる花を見てふと思い出し
たことがある。
俺が子供の頃はあちこちにたんぽぽの花がたくさん咲いていて、
花が終わったあとの胞子を「ふぅ」と吹いてよく遊んだ。でも、俺が
成人になる頃には、たんぽぽも、それを吹いて遊んでいる子供も
ほとんど見なくなってしまっていた。
そんなある日。たぶんどこかから引っ越してきたんやろう、あまり見
かけない少女がたんぽぽの胞子を持って家の庭先にやってきて、
「おじちゃんの家たんぽぽないねぇ、私が咲かしてあげる」
と言って、「ふぅ」と吹いてくれたのだ。
その時は、おじちゃんじゃなくてお兄ちゃんやで、などどお決まりの
フレーズを使うことも忘れ、飛んで広がる胞子を見ながら、その少
女の心根の優しさにただただ、感動していたことを覚えている。
それから一年、我が家の庭先にはたんぽぽの花があふれていた。
今その少女がどこで何をしてるのかはもちろん分からない。でも、
この子は最近のおかしな事件を起こすような人には絶対になって
いないと思う。
自分たちの子供にもこのような優しい気持ちを持って欲しいと願
うと同時に、灼熱のアスファルトばかりの昨今、せめて一輪のたん
ぽぽが育つ場所くらいは残して欲しいと思うのだ。
子供たちが小さな頃につけていた日記に、こんなことが書いて
あったのを思い出した。
今日のもくひょう・・・はれ
その日は親戚の結婚式で、子供も一緒やった。
子供の感性っていうのはほんとに素晴らしいと思う。
理屈はなくても、その日、一番大切にすべきことをたった二文
字でものの見事に表現してるもんなぁ。
今俺が、誰かの結婚式に呼ばれても、これを超える目標を持
って行ける気がしない。
俺もとりあえず今日からしばらく、日々の目標を"はれ"にしたい
と思います。梅雨ではあるけれど。
PS:
ちなみにその日の日記の「今日のはんせい」には、
「およめさんがきれい」
とありました。
3種の神器と言われる電化製品は、時代と共に変遷
してきた。
1950年代は、
白黒テレビ,電気洗濯機,電気冷蔵庫
1960年代の高度成長期は、
カラーテレビ,クーラー,自動車
2000年以降のIT,デジタル時代は、
薄型テレビ,DVDレコーダー,デジタルカメラ
ここで気が付くのが、白黒→カラー→薄型と、変わって
はいるものの、どの時代にもテレビが入っていること。
ということは、おそらく次の時代の3種の神器にも入って
くるであろう可能性が高い。
すると、次のテレビはどんなんになるねやろね?俺の希
望も含めた予想は次の通り。
1.立体化(3D)
こうなると、子供の頃、スカートを下から覗いていたバカ
な俺たちが正当化される。
2.プラネタリウム化
オゾン層が減っていく様子がくっきりはっきり映し出さ
れるので、先進技術に囲まれながらも自然の大切さ
を実感できる。
3.ロボット化
液晶画面を持つロボット型テレビ。家族それぞれの
好みの番組を覚えていて、時間になると、その人のい
る所まで行って番組を見せてくれる。好みの番組が
重なった場合は、その時に家族で一番権力を持って
いる人の番組を優先するので、実質上は嫁のものか。
ちなみにウチには、薄型テレビがまだないが、髪の毛は
薄型が流行る前から薄型である。
汚い商売って世の中にたくさんあるけど、今日その中でもかなり
性質の悪いのを見つけてしもた。
それは、女性の悩み相談室みたいな内容に見えて実は結婚
紹介所というふうな作りになってて、悩みの相談に乗りながら結
婚相手を紹介するという感じのもの。
ほんでこれ、ちょっと覗いてみたらえげつない。
その内容は、作り話の可能性も高いけど、とりあえず本当やと
して、ものすごくまとめると、ある主婦が旦那との関係がうまくい
かず悩んでいて、どうしたらいいでしょうか?というようなもの。
で、それに対する回答もものすごくまとめると、即刻別れるべき
です、となっている。
悩みの内容は細かく書かんけど、どんな夫婦にでもあるような、
俺みたいな夫婦暦20年を越すものから見たらなんとも些細な
ことやねん。
そりゃあ、人によって辛さの捉え方は違うから、一概に些細な
こととは言えないにしても、所詮メールで相談を受けただけの
わずかな情報を元に本人達に会うわけでもなく"別れるべき"
なんてふざけた回答をするだけでも、しょーもない奴ら。そして
結局は別れさせれば自分達の紹介業が繁盛するというという
目的ありきの回答をしてるということが、極めつけにしょーもなく、
バカの極み。
ほんまたいがい、もうちょっとまともに生きる気になれんのかね、
こういう仕事をしている人たちは。
と、言ったものの、女性の悩みのページをクリックする俺もまと
もとは言えんけど。
俺が会社で電話を取ることはまずないんやけど、取った時にいわ
ゆるあやしい投資系の営業さんからの電話やったりすることがある。
でもそういう電話は例外なく、最初の「もしもし」からなんか怪しさ
が伝わってきて、その道の勧誘やということがすぐに分かってしまう。
たぶん相手にしてもらえないやろうという諦めや、自分達のやって
いることへの後ろめたさが、どうしてもでてしまうんやろう。
今まで怪しさ、というか不気味さでは超ド級やった北朝鮮がつい
にミサイルを発射した。「不気味」で終わっていれば、つまりはお
ばけなので、他国も正体不明の脅威を感じてくれ、まだ存在の
しようもあったものを、完全に正体を現してしもたもんにゃあ、他
国は皆現実に沿った対応をする訳で、もはや北朝鮮に唯一残
されていたおばけ的な存在方法もなくなる。
その時、北朝鮮はどのような外交をするのか。
金正日の「もしもし」を聞いてみたい気がする。
「ヒデ引退」
ニュース速報で流れるほど、それは彼が日本のサッカー界において、
図抜けた存在であったことを意味する。
なので、やめるやめないは彼が決めることで他人がとやかく言うこと
じゃないのに、何かしらとやかく言いたがる人も増える。
ほんでもって、そういう人の話を全国に広めるのがTVや新聞の務
めなので、とやかくの意見が否が応でも飛び込んでくる。
その中で、元日本代表のラモスさんがこんなことを言っていた。
「せっかく才能に恵まれたのにもったいない。その才能を無駄にした
ら神様に怒られるヨゥ。考え直して欲しいヨゥ。」
(注:ヨゥはラモスらしさを出すために個人的に脚色)
いやー、相変わらず熱いねぇ、ラモスさんは。でも俺は自分に熱い
人はともかく、「他人に熱い」人にはものすごく冷たい人で、「まぁ
もう少し落ち着きなさいましよ」と言いたくなってしまう。
最後に、でもそれは個人の自由だからという趣旨のことをいうとか、
もっと頑張って欲しいという願望だけで済ませるならいいけど、まだ
現役を続ける"べき"なんてことを他人が言える訳がない。
人に「○○す"べき"」なんて言葉を使うのは、親が物心のつかない
子供をしつける時ぐらいのもの。それは、自分が子供のその時点の
人生に責任を持つということを意味している。
それ以外のことで、自立した他人の人生に責任を持てるはずなど
絶対にない訳で、他人の人生は無責任に捉え、意見を求められ
れば無責任に発言すること。これこそ、自らに対して責任を持ち、
他人を尊敬した言動やと思う。
それは、家族は例外として、自分を支えてくれている大切な人達
であっても同じ。もちろん、自分が大切に思っている人が悩んでい
たり、困っていたりしたら何とか力になってあげたいとか、こうしたほ
うがいいのではないか、とか色々な感情が湧いてくるのは自然なこと。
でも、そんな感情の葛藤も最後には「無責任」に帰結してこそ、
相手にとって最も大切な意見になるはずやねん。
一言で言うと、
「ふーん」
これ以上に他人を尊敬した言葉を俺は知らない。
早速使ってみよう。
「ヒデ引退」
「ふーん」
何故かまたヒデにぴったりなのが不思議。
願わくば、俺の近くにいてくれている人達が、この記事を読んで、
「ふーん」と思ってくれていますように。
河合隼雄さんが、人間同士の付き合いにおいて、「真実は劇薬、
嘘は常備薬」と言っている。それほどに、真実はよっぽどうまく使わ
ないと、相手を著しく傷つけてしまものであり、嘘は世の中を上手
く渡る上で、なくてはならないもの。
なので、どんどん嘘をつこう!などと声高に叫んでいるんじゃない。
嘘は便利でもやっぱり必ず真実を使わなければならない時があって、
その時はどう真実を使えばいいのかを考えてみたいのだ。
たとえば、電化製品等そこそこ高額な買い物をしたけど、その商品
が不良品やった場合。
ここは店とできるだけもめずに話をつけるために嘘で文句を言うとこ
うなる。
「いやーおたくで買ったこの冷蔵庫ね、デザインもええし、気に入っと
りますねん。店の方の対応もよかったし、さすがおたくの店はちゃいま
すなぁ。せやけどね、こんなことはね、言いたくないでっせ、ホンマ。
私の気のせいやとは思うねんけどね、というか気のせいに決まってま
すねんけどね、そうは言うたもんのね、ちょっとだけ冷えへんような気
もしますねん。イヤ最近の暑さのせいでっしゃろ、そら。そうに決まって
ます。私も気象も異常ですわ。そやけどね、ひょっとして商品が悪い
なんてことも100万分の1くらいの確率で考えられますから、もしよか
ったら一回見てもらえまへんやろか?」
これで店員さんがゴキゲンでクレームを受けてくれたからって、そんな
んこっちが気分悪い。
では、真実で文句を言うと、
「あのね、これ昨日買ったばっかりやのに、全然冷えへんやんか。ど
うなってるワケ?そのせいで冷蔵庫に入れたもんは腐って食えんよう
になるわ、異臭で気分は悪なるわ、おまけにこんなことで又店までこ
なあかん羽目になったがな。俺は土日しか休みないねん。おかげで、
その貴重な休みをこんなことに使うことになってしもたんやで。え?
商品を新品に交換します?そんなことは当たり前じゃい。冷蔵庫の
腐ったもんも弁償すんのが当然とちゃうか!?」
となり、全て当然の正当な理由の主張が受け入れられても、この後
この店に来たときにはこの店員さんと話づらくなる。
でも俺はやっぱり全面的に相手に非があることで、こっちが媚びてうま
くやるような嘘をつくことができないので、後者を選んでしまう。
まぁこれはひとつの例やけど、最近同じ電気屋さんで買った商品に続
けざまに、不良があって、この例のように、"商品の不良を起因とする
無駄な時間の消費"を余儀なくされ、俺はその店で続けざまに文句
を言うことになってしまった。
どっちも商品は同型の新品や上級機種の新品に取り替えてもらった
ものの、こっちは気分が悪くて仕方ないし、きっと店員さんも気分が悪
いやろう。おまけに先に話したように、次に店に顔を出しにくい。たぶん
店では「あの客はクレーム多いから気をつけるように」みたいなお触れ
が出されてるやろうし。
俺としては全く正当な理由でクレームをつけただけやのに、クレーム商
品に当たった方が気分が悪くなるような目に合うのが全く納得できない。
真実という劇薬の副作用やと言われれば、それまでやけど、結果は当
たり前の結果が出てるだけなんやから、なんか副作用が強すぎる気が
する。
もう少しバランスのいい真実の使い方はないもんやろかねぇ。
このブログのタイトルにあるように、俺はいつも子供心を忘れたく
ない、と思っている。
ただ子供心といっても、俺も一応大人のはしくれ、いつも子供み
たいな行動や考え方をしてたのでは、ただの幼稚なおやじになっ
てしまうので気持ち悪い。
そのあたり、大人のたしなみと、子供の好奇心をバランスよく保つ
というのがなかなか難しいのだけれど。
そんな研鑽?の毎日の中、今日は否が応でも子供心に戻って
しまう出来事があった。
俺は嫁さんの買い物に付き合うのがとってもキライなんやけど、
土日以外に一緒に行動するときがないので、そこは、ちょっと大
人の部分を見せて、お呼びがあればイヤイヤながらも付き合うこ
とにしている。
でもしょせんイヤイヤなので、スーパーなんかに買い物に行くと、
俺はいつも一人で買い物カートを押して面白そうなところがな
いかあちこちを探して回る。
もっともスーパーにそんな面白いところがあるはずもなく、ブリを見
てあのねのねを思い出したり、漬物を見て、梅宮辰夫と羽賀研
二は今どういう付き合いをしてるんやろうとかを考えながらあたり
をウロウロとしてるだけなんやけど、とにかくじっと嫁さんのあとに
付いて歩くということができない。
それなら、カートなんか押さずに歩き回ればええやん、というご
意見はごもっともなんやけど、なんせ見栄えがあまり良くないおや
じがカートも押さずにウロウロしてると人が怪しまなくても俺が怪
しむくらい怪しいので、ここは何としてでもカートが欲しいところ。
しかし、当然のごとく嫁さんは買った品物を入れるところがなく、
手に持って右往左往せなあかんわけで、いつも「勝手にカート
押してあっちこっち行かんといてよ、モウ!」と怒るのである。当た
り前だが。そしてついに今日はこう言われた。
「ここでじっとしててネ、勝手にどっかいっちゃダメでしゅよ」
さすがに嫁さんは子供の扱いが上手である。