昨日の投稿『ワイクルー』で甦った、我が恩師の思い出です。
タイで『ワイクルー』とは、師(クルー)に合掌する(ワイ)、師に礼を示すという意味で
毎年6月16日を「教師の日」と定めて、学生が教師に感謝や尊敬を示す儀式などを行うとか‥
今も昔も、日本には存在しない祭日ですよね。
Keiから『ワイクルー』の話を聞いて、はて自分にとってクルーと呼べる師は‥と考えてみました。
記憶力の低下が案じられる昨今ですが‥思い出しましたぁ~ひとりだけ
S町中学3年の担任だったITO JIRO先生です。
多感な15歳の少女Kimitsukuに、今後の生き方の指針を示してくれた先生でした。
断片的に記憶しているのは
① これからの女性は、精神的にも経済的にも自立することが大事
② 女性の社会的評価が低いのは、能力が無いのではなくチャンスが少なかったから
③ 実用婦人雑誌ではなく「婦人公論」を読みなさい‥‥など。
他に思い出すことは、夏休みに級友たちとアポイ岳登山に行った時
田舎の凸凹道で突然オンボロバスがジャンプして
ちょうど中腰で立っていたKimitsukuは、先生の膝の上に尻餅をついてしまい‥
あの時のドキドキした感触は今も、まざまざと‥。
また中3の修学旅行で仙台へ行った際には、どういう訳か先生が喫茶店へ誘ってくれて
まだ当時S町では見たことが無かった、ソフトクリームをご馳走になったこと。
どのようにして食べるのか分からず、周囲をキョロキョロ見回しながら
緊張して食べたことを懐かしく思い出します。
中学校を卒業する時、先生に大判のハンカチをプレゼントしたら
「どうして‥」と聞かれ、「先生のお弁当ハンカチが色褪せてきたから」と答えると
「よく見ているんだなぁ~」と顔を赤くされたことも、はっきり思い出します。
思うに‥ITO JIRO先生は我がクルーであり、初恋の君だったのでしょうね‥
その後、先生は同僚教師と結婚され、S町を離れ、お子さんが生まれ‥
何年か過ぎてから、結核が再発して亡くなられたと聞きました。
長い間ず~っと意識下に埋もれていた、遠い日のあれこれが
甘く甦った『我がワイクルー』の思い出でした。