kirakira 日記

きらきらした人生にしよう♪

神の目を気にした謙虚さ と 人の目を気にした自責

2025年01月11日 23時00分00秒 | 友の会からの気付き
羽仁もと子著作集

「みどりごの心」~みどりごの心~ p.14
「神を信じないものの自責は高慢・利己的。私のここに書いたことをそれと混同して頂きたくない」

「友の会とは何ぞ」~自由・協力・愛~ p.268
「自分1人で苦心し、骨折るのは高慢」

謙虚になる、極端になると私はできてないと自分責めに変わる。
でも、信仰なき上で、人の作る文化によってつくられた「謙虚であるべき」という考えを採用すると、高慢ということか。

人の目を気にしすぎる者は、神の目を気にした方がいい。

さあやは失敗についてどう思うか

2025年01月11日 23時00分00秒 | 子供のお言葉
さあやは前からほしかったトランポリンをクリスマスにサンタさんにお願いして、2階への階段前に置いていて、時々する。勢い余って、台所に机にぶつかったり、トランポリンとカバーの間に足を突っ込んでしまって、ケガしたりするから、私が「しばらくしたらあかん」と冗談で言うこともあった。

さあや:大人だから(は)、ケガしたらやめときって言うのはじゃまなの。

母:さあや、失敗についてはどう思う?
さあや:失敗は間違えたか、忘れたか。

母:(そういうことじゃなくて)どう思う?失敗することに対して。

さあや:失敗は怒られそう。どうしよどうしよって思う。怒られちゃいそう。あーってなっちゃう。
図書委員忘れたくらいやったら、「まーいいわ、あれぐらいやったら」って感じ。
先生が『失敗していいんです。』って言うけど、先生めっちゃ怒る。
でも、家で失敗するんやったら、別にいいし。
このくらいの失敗どうでもいいし、うるさいなって思う。
別にまたやり直したらいいし、誰々やって失敗してたやん。あやだって失敗したっていいやん。はー、なんなんって思っとく。


そうか、さあやはケガはいいけど、失敗は先生に怒られる場合のみイヤなんだ。
家では、私は失敗で怒るとしたら、自分の仕事が増える時だけだから、それ以外なら放置。それが気楽なのかもしれない。


私の気付き。
「失敗したくない」 失敗への恐れは大人によってつくられる。