内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「精神は気絶するまで自らを壁にぶつけるであろう」― シモーヌ・ヴェイユ「人格と聖なるもの」より

2024-08-31 04:52:34 | 読游摘録

 光溢れる葉月も今日で終わりですね。日本は巨大な台風10号に襲われ、こんな能天気な感懐に浸っているどころではないのかもしれませんが。
 ワタクシ的時間としては、今月はけっこう長かった。そう思えるのは、良きにつけ悪しきにつけ、内面的にはいろいろあったからなのかなぁ。
 でも、傍目からは、かくも何もない単調な日々の繰り返しを将来に対するいかなる希望もなくよくもまあ発狂もせずに生きていられますねと感心されかねないほど何もない毎日だったのですが(問題「適当なところに読点を打て」)。いや、そうでもないか。でも、それについては口をつぐみます、墓場まで。
 独りよがりで偏屈な私だけの歪んだ印象なのかも知れませんが、自分独りの狭隘で非寛容な偏見を「正義」と称して振りかざし、他者を裁く人たちがいたるところで増えているような気がします。その数たるや、いきなり戦意喪失するほどです。
 あっ、これ、偽善です。だって、私、そもそも戦う気がありませんから。駄目なんですよね、子どもときから。そういう「正義のミカタ」的な人と対面すると、すごすごと引いてしまうのです。口ごもってしまい、うつむいて、相手の顔も見ずに、「スミマセン」とぼそっと呟くのが関の山です。それでもおまえテツガクシャかって? 確かになんとも情けない話です。
 さて、新学年開始を来週に控えた今週に入って、仕事関係のメールが来るわ来るわ、それへの対応だけで鬱状態になりそうで、返信の合間に仕事とは無関係な読書に救いを求めたところが、「返り討ち」(これ、ちょっと違うか)にあって、結局さらに打ちのめされるという……。なんなの、これ?

 ここまでしょうもない拙駄文を読んでくださった皆さまの海よりも広く深いお心への深甚なる感謝の気持ちを込めて、シモーヌ・ヴェイユの以下の文章を共有させていただきます。皆様、今日もどうか佳き一日を。

 Un esprit qui sent sa captivité voudrait se la dissimuler. Mais s'il a horreur du mensonge il ne le fera pas. Il lui faudra alors beaucoup souffrir. Il se cognera contre la muraille jusqu'à l'évanouissement ; s'éveillera, regardera la muraille avec crainte, puis un jour recommencera et s'évanouira de nouveau ; et ainsi de suite, sans fin, sans aucune espérance. Un jour il s'éveillera de l'autre côté du mur.
                                 La personne et le sacré, Rivage Poche, 2017, p. 68.

 自らが囚われていると感じている精神は、囚われていることをありのままに認めようとはしないであろう。だが精神が虚偽を激しく嫌悪するならば、囚われていることをありのままに認めるであろう。そのとき精神は、ひどく苦しまざるをえないであろう。精神は気絶するまで自らを壁にぶつけるであろう。そうして目覚め、恐れをもって壁をじっと見つめるであろう。続いてある日、また壁に自らをぶつけ、また気絶するといったように、際限なく、いかなる希望もなく、繰り返すであろう。こうしてある日、精神は、壁の向こう側で目覚めるであろう。(今村純子訳『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』河出文庫、2018年、358頁)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


坂本龍一「Andata」と「Aqua」

2024-08-30 03:25:25 | 私の好きな曲

 是枝裕和監督の『怪物』を帰仏の機内で観て、これは何度も観なおしたいと思って、Blu-Ray 版を帰宅して直ぐに注文して、届いたらすぐに観て、そのなかで使われている坂本龍一の音楽が心の深いところにまで染み込んできて、それで Apple musique で彼の音源のなかから Opus という今年リリースされたアルバムを毎日聴いていて、すべての曲の一音一音が心に染みるのだけれども、「Andata」と「Aqua」に今の私の心はとりわけ震えてしまいます。皆様、どうか佳き一日をお過ごしください。


「白い花はそこにある。だがすでにほとんど破壊されている。」― シモーヌ・ヴェイユ『ロンドン論集とさいごの手紙』より

2024-08-29 05:04:25 | 読游摘録

 「スミマセン」って、あやまる必要はないのかもしれませんが、今日はとても自分の文章を綴れる精神状態にありません。最近、なんか、ほんと、かなり精神状態が不安定なことが多くて、外界のこれでもかと言わんばかりの澄みきった青空とは裏腹の予測不可能な天気のごとき自分の心模様をしぶしぶ観察するのがやっとで、それ以上のことはなにもできなくて、それだけでもしんどくて、だから、今日の記事は、以前に下線を引いておいた文章をただ貼り付けるだけです。皆様、ごきげんよう。

 Il y a dans la pauvreté une poésie dont il n’y a aucun autre équivalent. C’est la poésie qui émane de la chair misérable vue dans la vérité de sa misère. Le spectacle des fleurs de cerisier, au printemps, n’irait pas droit au cœur comme il fait si leur fragilité n’était tellement sensible. En général une condition de l’extrême beauté est d’être presque absente, ou par la distance, ou par la faiblesse. Les astres sont immuables, mais très lointains ; les fleurs blanches sont là, mais déjà presque détruites. De la même manière l’homme ne peut aimer Dieu d’un amour pur que s’il le conçoit comme étant hors du monde, dans les cieux ; ou bien présent sur terre à la manière des hommes, mais faible, humilié et tué ; ou encore, ce qui est un degré d’absence encore plus grand, présent comme un minuscule morceau de matière destiné à être mangé.

Simone Weil, Œuvres complètes, Gallimard, tome V – 2, 2013, p. 384.

 貧しさには、他にいかなる等価物もない詩がある。それは、肉体の悲惨さという真実のうちに見られる悲惨な肉体から発せられる詩である。春、桜の花の光景は、もしその儚さがあれほど感じられるのでなければ、これほど胸を打つことはないであろう。概して、極限の美の条件は、距離によるのであれ、弱さによるのであれ、ほとんど不在であるということだ。星々は不変である。だがとても遠くにある。白い花はそこにある。だがすでにほとんど破壊されている。同様に、人間が純粋な愛をもって神を愛しうるのは、この世界の外に、天のうちにいますものとして神を思い描く場合にかぎられる。あるいはまた、この地上で、弱く、辱められ、殺されてしまう人間として、あるいはさらに、いっそう大きな不在である、食べられてしまう宿命にある物質の微小な塊として、神を思い描く場合にかぎられる。

                    (今村純子訳『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』河出文庫、12‐13頁)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


セレンディピティ serendipity と「ありのすさび」

2024-08-28 09:54:16 | 読游摘録

 今年に入ってこのブログでも何度か話題にしたNHKドラマ『舟を編む ~私、辞書つくります』のなかで「セレンディピティ serendipity」という言葉が使われるシーンが何度かある。『図書館情報学用語辞典 第5版』の説明によると、「偶然に思いがけない幸運な発見をする能力、またはその能力を行使すること」である。「この能力により、失敗した実験の結果から予想外の有用なデータや知識を得たり、検索結果を点検しているときにノイズの中から偶然に当初の目的とは異なる価値のある情報を発見したりできる。ただし、すべてが偶然や幸運に依存するのではなく、有用なデータ、情報に気付くための基盤となる潜在的な知識や集中力、観察力、洞察力を要する。英国の小説家、ウォルポール(Horace Walpole 1717-1797)がスリランカの昔話『セイロン(Serendip)の三王子』(Three Princes of Serendip)にちなんで造った語といわれる。」(同辞典)
 ドラマでは紙の辞書の効用としてセレンディピティが強調されていた。確かに、電子辞書やオンライン辞典だと、探している当の語以外に偶然に目が行くという機会は乏しいのに対して、紙の辞書で調べていると、調べている語の付近に立項してあり、かつその語とはまったく繋がりがない語にも目が行くことがよくある(少なくとも、私自身にとってはそうである)。
 ただ、それがいつも「幸運な発見」とはかぎらない。ときには、不意に痛棒を喫することがある。今朝がそうだった。
 丸谷才一の『新々百人一首』(新潮社、一九九九年)を拾い読みしていて、大弐三位(紫式部の一人娘)の百人一首にも採られている歌「有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする」に言及している箇所があって、この歌の解釈を手元の古語辞典で片っ端から調べているときだった。久保田淳・室伏信助=編『全訳古語辞典』(角川書店、二〇〇二年)の見開き左頁中段にある同歌の分析を読み終えて、ふと右側頁下段に目が行った。
 そこで目に飛び込んできた項は「ありのすさび【有りの遊び】」であった。「あることに慣れてしまい、ありがたいと思わなくなってしまうこと。生きていることに慣れてしまって、いいかげんに暮らすこと。」
 まいった。これ、今の私のことに他ならない。
 同項には例として『古今六帖』の歌が挙げてある。

ある時はありのすさびに語らはで恋しきものと別れてぞ知る

(そばにいるときは、いることに慣れてしまって親しく語りあうこともなく、(死に)別れてから恋しい人だと気がつくものだ。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「天才」という言葉への違和感 ― E・M・フォースターの小説論に触れて

2024-08-27 14:04:11 | 読游摘録

 傑出した才能を示す人を褒めて「天才」という言葉がわりと安易に使われていることにいつも違和感を覚えていた。天から恵まれたとしか思えないような類まれな才能をもって生まれた画家や音楽家や詩人やスポーツ選手たちを称賛するためにこの語が使われるのはわからなくはないけれど、そう言っただけでは、大切なことは何も捉えられていないなと思うことが多い。
 学問の世界でも、「天才」という言葉が使われることがあるけれど、これにはさらに強い違和感を覚える。場合によっては、使う人の知性を疑う。たとえその偉大な業績を讃えるためであっても、いや、むしろそうであればこそ、この言葉は避けて、何が優れているのかを正確に捉えるべきであると思う。そうでなければその学問の継承はありえないだろう。もちろんそれは容易ならざることではあるけれども。
 こんなことを思ったのには実は最近具体的なきっかけがあったからなのだが、それには触れない。「あのことか」と思い当たる方も一人二人いらっしゃるかも知れないが、それ自体はつまらないことだし、そのことで誰かを誹謗中傷するつもりもない。ただ、自分も関わりをもった一件だけに、まことに残念だとは思っている。
 一昨日、西郷信綱の『源氏物語を読むために』(平凡社ライブラリー、2005年。本書のことは5月16日の記事で取り上げたので、そちらもご覧くだされ)の最終章第十章「紫式部のこと」の最後まで読んで、以下の一節に出会い、私が「天才」という言葉についてわだかまりをもっていた理由はこれだったと気づかされた。この文章の初出がいつか正確なところはわからないが、1970年代末から1982年の間である。自戒の意味も込めて、少し長いが全文引用する。

 私は危うく天才という語を使いたくなるところだったが、E・M・フォースターの小説論に次のような発言があるのを想い出した。本書の結びのことばとして多少ふさわしい点がなくもないので引かせてもらう。いわく、「天才に言及するのが、……えせ学者の特徴だ。彼は天才を云々するのを好む。というのは、この語のひびきが、それの意味を明らかにするのを免じてくれるからである。文学は天才によって書かれる。小説家は天才である。さあこれでいい。ではその分類にとりかかろう。そして彼は分類する。彼のいうところはすべて間違っていないかも知れぬが、まるで役だたない。彼は作品のなかに入りこまずに、その周辺を動きまわっているのだから。……読み手はひとり腰をおろし作者と格闘せねばならない。このことをえせ学者はやろうとしない。それよりむしろ作品をその時代史とか、作者の生涯におけるあれこれの事件とか、その描いている諸事件とかに関連させようとする。《傾向》という語が使えるようになると、途端に彼は張り切るのだが、それを読まされる方はげんなりする、云々」。
 まことにその通りだと思う。私たちもせいぜいえせ学者にならぬ用心肝要ということになる。ただ、格闘しながら作品を読むとは具体的にどういうことか。半世紀ほど前フォースターの考えていたであろうようにそれがもはや無邪気で自明な行為ではなくなっている点にこそ、今日の私たちの問題があるのを忘れてはなるまい。(303‐304頁)

 おまえなどそもそもえせ学者ですらない、ただの無能無才の老いぼれじゃないか、と言われればそれまでだが、自分にとってとても大切な作品(もちろん小説にかぎらない)に関しては、フォースターのいう「格闘」する姿勢を忘れないようにしたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


今様を歌う遊女の声 ―「声すべて似るもなく、空に澄み上りて」(『更級日記』より)

2024-08-26 11:28:49 | 読游摘録

 今様とは何だったのか、誰が今様の担い手だったのか。植木朝子・編訳『梁塵秘抄』の「解説」からこれらの問いの答えを以下に摘録する。
 「今様」とは、現代的だ、当世風だ、目新しいといった意味の言葉で、それを当時の最新流行の歌謡に用いた早い例が『枕草子』『紫式部日記』に見られる。
 それから百六十年ほど経って、後白河院は『梁塵秘抄』を編む。本来歌い捨てられるはずの当時の流行歌に夢中になった院は、遊女や傀儡女など身分の低い者をそば近くに召して今様を習い、喉を痛めて湯水も通らなくなるほど熱中した。『梁塵秘抄』がほぼまとまったのは嘉応元年(一一六九)、院四十三歳のときである。
 この後白河の時代が今様の爛熟期に当たり、以後、今様は衰退の一途をたどり、鎌倉時代半ば以降は、宮廷行事の一部に残るだけとなり、江戸時代にはほとんど忘れ去られてしまった。
 今様には、それを歌うことを専門とする女性芸能者がいた。遊女・傀儡・白拍子である。
 遊女は、水上交通の要路に住み、小舟に乗って旅客のいる船に近づいて遊芸に興じた。
 傀儡は、陸路の要衝を本拠としつつ漂泊流浪した芸能者であった。男は狩猟を主な生業とするが、曲芸や幻術を行い、木偶を舞わせるなどの芸を見せることもあった。女は美しく装って、歌舞を行い、しばしば旅客と枕席を共にした。
 遊女と傀儡の女性は、今様を歌い、枕席に侍るという点ではよく似た芸能者であるが、女性だけで集団を作る遊女と、男性とともに集団をなす傀儡、水辺の遊女と陸地の傀儡といったように、対象的な一面も持っている。
 白拍子は、水干に立鳥帽子、鞘巻を帯びた男装の女性芸能者で、本芸は舞にあり、足拍子を踏みならしながら旋回するところに特徴があり、遊女や傀儡よりやや遅れて登場した。
 彼女たちがどのような声でどのような節を付けて今様を歌ったのか、今となっては知る由もないが、『更級日記』では、足柄で出会った遊女の歌声を「声すべて似るもなく、空に澄み上りて」と表現している。
 今様は、細く高く空に澄み上るような女声で歌われることを理想とした歌謡であった。
 これらのことどもを思い合せながら、昨日の記事に引いた法文歌を口ずさめばさらに感興も増す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「仏はつねにいませども うつつならぬぞあはれなる 人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ」(『梁塵秘抄』より)―「ことばの花筐」(4)

2024-08-25 11:08:05 | 詩歌逍遥

 一昨日が紙版の刊行日である三浦佑之氏の『増補 日本霊異記の世界』の電子書籍版を今さきほど買い求め、検索機能を使ってあちこち覗いていたら、『梁塵秘抄』の最も有名な法文歌の一つが目に止まった。

仏はつねにいませども うつつならぬぞあはれなる 
人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ(26)

 目に見えない仏に憧れる心を平易に歌ったこの一首は、北原白秋、菊池寛、川端康成、三島由紀夫など、多くの文学者をひきつけた(植木朝子『梁塵秘抄の世界 中世を映す歌謡』角川選書、二〇〇九年)。
 同じく植木朝子氏の『梁塵秘抄』(ちくま学芸文庫、二〇一四年)の当該今様の評は、「第二句「あはれなる」については、しみじみ尊く思われる、悲しいことと嘆かれる、の二様の解釈がある。法文歌においては、[…]まずは仏・菩薩や経、修行者の尊いことを讃美して、その尊さの内容を説明していく形式が多いので、当該今様においても、まずは仏の尊さを捉えたものと見たい」としている。
 これに対して、西郷信綱は『梁塵秘抄』(講談社学術文庫、二〇一七年)は、「あはれなる」の意の取り方について次のような見解を示している。

この句は、梁塵秘抄の愛用するところで、[…]法文歌に用いられることが多く、そしてそれは仏への帰依讃歎の心をあらわしている。だがそうかといってこの「仏は常に」の「あはれなる」を、そのようにきっぱり一義化してしまっていいかどうか問題がある。
 […]その解釈は、しみじみ尊く思われるとする説と、まことに悲しいことだとする説とに割れており、そのどちらかであるかが従来あれこれ論じられている。
 しかし、それを二者撰一と考えるのは、正しい享受とはいいがたい。[…]この句が常住不滅な仏への讃歎をあらわすとともに、それをまさに目に見ることのできぬ顚倒せる凡夫の歎きをも同時にあらわしており、そこにこの歌の独自なめでたさの存することが、おのずから納得されるのではなかろうか。

 西郷は下句についても解釈上の問題を指摘する。この句について、「ただ一般的に人の寝静まった夜明けがたに云々と棒読みしたら、万事休すである。夜来、仏を一心に讃歎敬仰して暁に至り、とろっとした忘我境に夢幻のごとく仏が示現するという意と解さねばならぬ」という。
 この〈時〉に関しては、馬場光子氏の『走る女』(筑摩書房、一九九二年)のなかの「遊女の祈り」と題された章のなかの同法文歌についての指摘が大変興味深い。

時は暁。夜の白む曙よりも、もっと夜に近い。この時間帯は、神楽など祭祀の場では、終夜(よもすがら)の神遊びの果てに、神が異界に帰る時刻であり、また説話では、[…]異形の者が異界への帰ってゆく時でもある。このように、夜と朝との間、人間世界と異界との間である暁に、仏が姿を見せるのだという。七日七夜の修行の果ての夢中示現である。
 一首の見仏は、すべて朧である。時は暁。夜と朝とのあわい。「現ならぬ」「人の音せぬ」と、現実の人間の生活する世界を表す「現」「人の音」という言葉は、否定形によってしか用いられていない。しかも、「ほのか」「夢」という、はかない言葉が積み重ねられている。教義としての、仏の常住不滅、夢中示現は、「常にいませども」「見えたまふ」と、仏典さながらの硬質な論理性を後退させて、たおやかな情感が前面におし出されている。こうした言葉には、人びとの情に訴えて、その感性をからめとろうとする力がこもっている。(203頁)

 こうして諸家の読みに導かれながら奥深い古典の世界をひととき逍遥することで、無明を彷徨う魂にもいくばくかの慰めが与えられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「愛する人にとって別れは苦しいものであるが、善きものである。なぜなら別れとは愛だからである。」― シモーヌ・ヴェイユ「神への愛と不幸」より

2024-08-24 08:28:21 | 読游摘録

 今日はシモーヌ・ヴェイユの命日である。今から81年前の1943年の今日、イギリスのケント州アシュフォードのサナトリウムで亡くなった。享年34歳。診断書には、栄養失調と肺結核による衰弱死と書かれた。
 遺体はアシュフォードの共同墓地に埋葬された。キリスト教徒とユダヤ教徒の両区画にはさまれた細長い緩衝地帯にそれはある。名前と生没年のみが記された、なんの墓碑銘もない、灰色の大理石の墓である。(以上、冨原眞弓『シモーヌ・ヴェイユ』岩波現代文庫より)
 Attente de Dieu 『神をまちのぞむ』に収められた « L’Amour de Dieu et le malheur » 「神への愛と不幸」から一箇所引用して、故人への思いを新たにしたい。なお、原題には、それぞれ「神が待っている」「神の愛と不幸」の意もあり、両義が込められている。

Nous autres hommes, notre misère nous donne le privilège infiniment précieux d’avoir part à cette distance placée entre le Fils et le Père. Mais cette distance n’est séparation que pour ceux qui aiment. Pour ceux qui aiment, la séparation, quoique douloureuse, est un bien, parce qu’elle est amour. La détresse même du Christ abandonné est un bien. Il ne peut pas y avoir pour nous ici-bas de plus grand bien que d’y avoir part. Dieu ici-bas ne peut pas nous être parfaitement présent, à cause de la chair. Mais il peut nous être dans l’extrême malheur presque parfaitement absent. C’est pour nous sur terre l’unique possibilité de perfection. C’est pourquoi la Croix est notre unique espoir.

わたしたち人間は、その悲惨さによって、〈子〉と〈父〉のあいだに置かれたこの距離に与るというかぎりなく貴重な特権を与えられている。だがこの距離が別れであるのは、愛する人にとってのみである。愛する人にとって別れは苦しいものであるが、善きものである。なぜなら別れとは愛だからである。見棄てられたキリストの苦悶そのものは善きものである。この世でわたしたちにとってこのキリストの苦悶に与るよりも大いなる善はありえない。この世において神は肉体をもたないために、わたしたちの前に完全にあらわれることはない。だが、極限の不幸にあるとき、わたしたちに神はほぼ完全に不在である。これが、この地上でわたしたちにとって唯一の完全性の可能性である。こうして十字架はわたしたちの唯一の希望である。

(今村純子訳『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』河出文庫、2018年、250‐251頁。ただし、今村訳の冒頭では「それ以外の人間であるわたしたち」となっているところを上記のように変えた。なぜなら、ここでの autres は「それ以外の」という意味ではなく、直前の段落で言及されている「キリストとその〈父〉」とわたしたち人間との対比を強調するための用法だからである。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「身にしむばかりあはれなるらむ」―『和泉式部集』より

2024-08-23 15:32:21 | 詩歌逍遥

 

 毎年のことながら、新学年を目前にした夏の終わりには少し憂鬱になってしまいます。数ヶ月前には思いもよらなかった重責を新年度から負うことになり、この夏は今までにもまして気が重く、爽やかな夏空が恨めしくさえ感じられます。個人的にも心にかかること多く、気持ちは深く沈みがちです。
 そんな暗く浮かない気分のときには、いささかの束の間の慰藉を求めて、あてどなく日本の古典を、特に詩歌の世界を逍遥します。
ここ数日は『紫式部集』を眺めていました。すでに何度も読んでいるのに、身に沁みる言葉に今またあらためて出会うことで少しこころが慰みます。儚き慰みではありますが。
 今日は、仕事机に向かったまま手を伸ばせば届く書架に『紫式部日記 紫式部集』と並んで置かれている『和泉式部日記 和泉式部集』(いずれも新潮日本古典集成)を手に取り、ぼんやりと式部集の頁をめくっておりました。
 本書に収められているのは『宸翰本和泉式部集』で、集と続集との重複歌も含めて千五百首余りの歌を収める岩波文庫版『和泉式部集・和泉式部続集』より歌数もはるかに少なく、十分の一以下の百五十首に過ぎませんが、『集・続集』に収録された歌との異同もあり、それはそれで興味深くもあります。一例を挙げましょう。

秋吹くはいかなる色の風なれば身にしむばかり人のこひしき

 宸翰本の第一四歌です。この歌、岩波文庫版には一三三・八六九に重複して掲載されており、第五句がどちらも「あはれなるらん(む)」となっています。しかも八六九のほうでは、第二・三句が「いかなる風の色なれば」とあり、「色」と「風」が一三三とは入れ替わっています。古典集成の校注者野村精一は、頭注で「これらの異同はむしろ推敲過程を示すものか。単なる異伝の重出ではないようである。」と推測している。これらすべてを変奏曲のように楽しむのも一興ですね。
 ところで、この一首、紫式部のお気に入りだったようで、『源氏物語』のなかで数回言及されています。校注者がこぞって挙げているのは、「秋吹くはいかなる色の風なれば身にしむばかりあはれなるらん(む)」のほうです。『詞花和歌集』でもこのかたちで秋の部に採られています。この勅撰和歌集が編纂されたのは紫式部や和泉式部が生きた時代から百年ほど後のことです。紫式部が目にしたのはやはり「あはれなるらん(む)」のほうだったでしょう。
 ちなみに、『定家八代抄』(上・下、岩波文庫)には、「人のこひしき」のほうが恋歌として採られています。このかたちも和泉式部自身の手になるものなのか、宸翰本を編纂した後代の誰かの手になるものなのか、いまところ、決め手はないようです。
 塚本邦雄は『淸唱千首』(冨山房百科文庫、一九八三年)で「あはれなるらむ」のほうを採っています。

身に沁むとはもと「身に染む」ゆゑに、秋風の「色」を尋ねた。「秋風はいかなる色に吹く」とでもあるべきを、逆順風の構成を取つたことによつて、思はぬ新しさを添へた。二十一代集に同じ初句を持つ歌は他にない。この作者ならば靑・紅・白とほしいままに色を決め得るだらう、それも格別の眺めだ。しかも疑問のままで終るゆゑの深い餘情。

 最後に「あはれなるらむ」のほうを掲げて再度味わってこの記事を締めくくりたいと思います。

秋吹くはいかなる色の風なれば身にしむばかりあはれなるらむ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「眼を閉じて鉛筆のさきで机をなぞるとき、私にとっての鉛筆」(シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』より ―「ことばの花筐」(3)

2024-08-23 09:30:58 | 読游摘録

Ce que le crayon est pour moi quand, les yeux fermes, je palpe la table avec la pointe — être cela pour le Christ. Nous avons la possibilité d’être des médiateurs entre Dieu et la partie de création qui nous est confiée. Il faut notre consentement pour qu’à travers nous il perçoive sa propre création. Avec notre consentement il opère cette merveille. Il suffirait que j’aie su me retirer de ma propre âme pour que cette table que j’ai devant moi ait l’incomparable fortune d’être vue par Dieu. Dieu ne peut aimer en nous que ce consentement à nous retirer pour le laisser passer, comme lui-même, créateur, s’est retiré pour nous laisser être. Cette double opération n’a pas d’autre sens que l’amour, comme le père donne à son enfant ce qui permettra à l’enfant de faire un présent le jour de l’anniversaire de son père. Dieu qui n’est pas autre chose qu’amour n’a pas créé autre chose que de l’amour.

眼を閉じて鉛筆のさきで机をなぞるときの、わたしにとっての鉛筆。――わたしはキリストにとってその鉛筆でありたい。神と、われわれに託された創造の一部とをつなぐ仲介となる可能性が、われわれにはある。神がわれわれを通して神自身による創造を認知するには、われわれの同意が必要なのだ。われわれの同意をもって神はこの奇跡を実現する。わたしの眼前のこの机が神に直視されるという比類なき幸運に浴するには、わたしが自身の魂から退くすべを知るだけでよい。創造主なる神自身がわれわれを存在させるために退いたように、神を通らせるために退くという同意。神がわれわれのなかで愛しうるのは、この同意を措いてほかにない。この双方向からの動きに、愛以外の意味はない。子どもが父親の誕生日に贈りものができるようにと、父親が子どもに小遣いを与えるのに似ている。愛以外のなにものでもない神は、愛以外はなにも創造しなかった。(岩波文庫『重力と恩寵』冨原眞弓訳)