内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

夢 ― 自己と非自己との分節が曖昧になる生命の次元

2024-10-31 17:03:30 | 雑感

 フロイトの『夢解釈』(邦訳は『夢判断』)の初版が刊行された1900年から百年前 、ヨーロッパの学者たちはすでに夢に強い関心をもっていた。
 夢は「人格のもっとも密やかな中心」( « le centre le plus secret de la personnalité », Histoire de la vie privée, sous la direction de Philippe Ariès et Georges Duby, 4. De la Révolution à la Grande Guerre, volume dirigé par Michelle Perrot, Editions du Seuil, « Points Histoire », 1999, 1re édition, 1987, p. 435)に関わり、その中心は昼間の目覚めた生活がもたらす何重もの覆いの下に隠されている。そう考えられていた。
 19世紀最初の三十年間ほどは、魂が睡眠中にどのような状態にあるかという問いをめぐっていくつかの立場に分かれた。
 メーヌ・ド・ビランは、睡眠中には魂もまた眠ると考えた。ジョフロアという学者は、逆に、魂は睡眠中に目覚めるという立場を取った。レリュという学者は、魂は睡眠中休息すると主張した。ロマン主義者たちにとっては、夢は魂にとってその真正な復活であった。夢は深層存在の言葉にほかならなかった。
 魂の存在が信じられなくなったとき、その当然の帰結として、これらすべての夢理論はその根拠を失った。
 私個人としては、ロマン主義者たちの立場にいまだに「ロマン」を感じる一方、自己と非自己という生物学・生理学のレベルでの分節化が曖昧になる生命の次元が存在することの指標が夢なのではないかと考えてもいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


近代における「自律」という「監獄」の誕生

2024-10-30 23:59:59 | 哲学

 メーヌ・ド・ビランが1815年に年間を通じて付けていた日記は、Marc-Antoine Jullien (1775-1848) が考案・刊行・販売した « Agenda général ou Mémorial portatif pour l’année 18 . . » に記されている。この日記帳の形態についてはアンリ・グイエがビランの『日記』第三巻の59‐62頁に詳述している。その記述には、ビランが実際に使った一冊が Grateloup の資料館(?)に保存されているとあるが現在もそうなのかどうかはわからない。Philippe Lejeune と Catherine Bogaert が編集した Un journal à soi. Histoire d’une pratique, Paris, Editions Textuel, 2003, p. 60-61 にジュリアン版 Agenda のファクシミリが収録されているらしいが未見である。
 マルク=アントワーヌ・ジュリアンについては、フランス語でも資料が乏しいのだが、なぜかウィキペディア日本語版には短いがわりとちゃんとした記述がある。しかし、残念なことに、彼がいわば教育家として活躍した1810年代以降についての記述はない。日記帳の考案・刊行・販売も教育を一つの「科学」にまで高めようというジュリアンの構想のなかで実行されたことで、ビランもこの時期にジュリアンと出会っているだけに、ビラン研究にとっては1810年以降のジュリアンの活動との関係が特に重要である。
 ビランはジュリアン版の日記帳の構成に必ずしも忠実に従っているわけではないが、1815年以後のビランの日記の構成のモデルになっていることは明らかである。
 このジュリアン版の日記は、一言で言えば、自己の日常生活の総合的な自己管理ためのツールとして考案された。
 その構成は6部からなる。第1部はいわゆる日々の記録で、その日その日の用事や予定を記す。第2部は出納帳(家計簿)、第3部はその日会った人物の記録、第4部は書簡のやり取り、第5部は読書記録、第6部は備忘録およびアイデア帳である。これらに月ごとの見返りと年間の見返りとが加わる。
 これらの記録が煩瑣にならず一日に10分程度で済むように、さまざまな略号を使用することをジュリアンは推奨している。例えば、その日の総合評価として p(進歩あり)s(停滞)d(後退)と記すとか、天気を19のタイプに分けてそれぞれにコードを与えることなどを提案している。
 これらの諸項目を総合的に日々管理し全体的な自己制御を行うという発想は、イギリスの哲学者ジェレミー・ベンサムが構想した刑務所施設パノプティコン(ミッシェル・フーコー『監獄の誕生』参照)の発想と軌を一にするものだという Philippe Lejeune と Catherine Bogaert の上掲書における指摘は大変興味深い(Claude Reichler, « Météores et perception de soi : un paradigme de la variation liée ». In La pluie et le beau temps dans la littérature française. Discours scientifiques et transformations littéraires, du Moyen Âge à l’époque moderne, Hermann, 2012, p. 228)。
 以上から、自己によって自己を管理するという近代的発想が「自律」という「監獄」を誕生させたと言うことができるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


年間総ジョギング目標距離3660kmに本日到達

2024-10-29 17:26:48 | 雑感

 哲学の話が10日も続いたのでちょっと肩が凝りました。話題を変えます。
 今日、表題のような区切りがつき、本人はちょっと感慨を覚えています。
 年間を通じて一日平均10キロという目標値をそのまま遵守した場合の年間総距離に今年はあと63日残して到達したことになります。昨年は11月23日に到達しましたから、それより25日も早く到達しました。
 昨年の年間総距離は4087kmで、一日平均11,2キロだったのですが、今年は、前半からこの昨年の数値を目標とすることにしていました。ただし、それを大きく超えようというのではなく、年も年だし、やはり以前にはなかった体の変調も感じるようになったから、今年あたりを「生涯最高値」の年として、以後は、いつまでかわかりませんが、年間総距離を年々漸減させていくことにしたのです。
 昨年の数値をわずかに超えるには、閏年の今年、4099km走る必要があります。キリよく4100kmとするとして、あと440kmです。これを今年の残り日数63で割ると、一日平均7kmをわずかに下回ります。ここ3年の我が実績からすれば、楽勝、です。
 もちろん、「人生、一寸先は闇」ですから、今年の大晦日を迎える前にお陀仏ということもありえますが、それはそれで「以って瞑すべし」です。
 なにはともあれ、今夜は祝杯を挙げることにします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


19世紀初頭の気象学の自然科学としての自立が到来させた「神なき」内面世界

2024-10-28 23:59:59 | 哲学

 特殊な装置を使用する場合や宇宙船・潜水艦あるいはそれに準ずる特殊な閉鎖空間を例外として、私たちは大気のなかでしか生きられず、常にある気候・天気・空模様の下で暮らしているのだから、それらからの直接的な心身への影響に恒常的に晒されている。これは人類の誕生とともに人間に与えられた生存条件である。
 しかし、それだけではなく、人間の自己認識は、それぞれの時代の気象に関する科学的知識・文化的表象・宗教的表象・民間信仰等によって規定されてもいる。
 この気象と自己認識との関係という問題は、フランスでは、歴史学、人類学、比較文学などの分野でよく研究されていて、気象学史および気象の科学的研究の成果をも視野に入れた人文科学における一つの重要な学際的研究領域を形成している。
 歴史学の分野からこの研究領域の発展に主導的な貢献をしているのがアラン・コルバンである。Le ciel et la mer, Flammarion, « Champs », 2019, 1re édition, Bayard, 2005(小倉孝誠=訳『空と海』藤原書店、2007年)は一般向けの一連の講演が基になっているので、気象研究が感性の文化と歴史にとってきわめて重要な要素であることがとてもわかり易く述べてある。
 邦訳のレビューによると、訳文も大変読みやすいようだ。それに、邦訳には原書には未収録の第4章「身体と風景の構築」と付録としてコルバンへのインタビュー「心性史から感性の歴史へ」(聞き手=イザベル・フランドロワ)も収録されている。
 第1章「天候にたいする感性の歴史のために」には、メーヌ・ド・ビランに言及されている箇所が一つだけある。それは、気象学に大きな進歩が見られた19世紀初頭に、心象の記述における気象記述言語のメタフォリックな使用や両者の単なるパラレリズムを超えた、両者の相互浸透的な関係が学的考察の対象になり始めたという文脈においてである。
 まさにこの問題を日記における哲学的考察の主要なテーマとしたのがメーヌ・ド・ビランなのであるから、この言及は当然のことである。それに、メーヌ・ド・ビランにおける気象と自己認識の関係は、コルバンもたびたび引用し、共著の協力者としてもしばしば登場する Anouchka Vasak が特に研究している重要なテーマの一つでもあり、昨日の記事で言及した2つの論文のうちの後者の筆者は彼女である。
 今日のところはその点は措くとして、私がコルバンの上掲のテキストでハッとさせられた一節のみを引く。

Surtout : s’arrêter à l’événement météorologique et à ses effets sur le moi, c’est délimiter un territoire privé, à l’écart ou, tout au moins, en bordure de la scène historique ; c’est se construire un monde à usage interne ; c’est laïciser le temps. 
                                           A. Corbin, op. cit., p. 28.

 迂闊と言えば迂闊な話なのだが、この引用の最後の文に使われている動詞 laïciser(非宗教化する、世俗化する、宗教から分離する)にハッとさせられたのである。つまり、17世紀にすでにその端緒が見られ、18世紀に啓蒙思想家たちによって「お墨付き」をもらっていたこととはいえ、気象現象の科学的考察および宗教(特にキリスト教)的解釈からの分離が、気象学が学問として自立する19世紀初頭に決定的となり、気象現象が影響を及ぼす個人の内面空間が「世俗化」され、それとして学的考察対象となったということに、この動詞一つによって今更ながら気づかされた、という間抜けな話である。
 「神なき」内面世界の到来という精神史の転換期という文脈のなかでメーヌ・ド・ビランの哲学的探究は展開される。その限りにおいて、そこに「超自然的恩寵」が到来しないことは論理的に必然的な帰結であると言わざるを得ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


メーヌ・ド・ビランの哲学をその〈外〉へと開き、その〈外〉から考察する手がかりとなる2つの論文

2024-10-27 17:00:18 | 哲学

 メーヌ・ド・ビランを哲学者として研究対象としたモノグラフィーはフランス語圏でもさほど多くはなく、1948年に出版されたアンリ・グイエのビラン研究から数え始めても主要な著作に限れば十指で足りるのではないかと思う。
 パスカル生誕400年であった昨年2023年には、特に目立った出版物に限っても優に10冊を超える研究書や伝記が刊行されたことと引き比べると、フランス哲学史におけるビランの影は薄いと言わざるを得ない。フランス哲学史をひととおり学んだ人たち以外にはフランスでもその名さえほとんど知られていない。
 ところが、面白いことに、哲学書以外でその名をときどき見かけることがある。管見によると、それは主に三つのテーマに関わる。フランス近代における、特に19世紀最初の四半世紀における、日記の歴史、感情の歴史、気象と生理の関係研究史というテーマである。これらのテーマのいずれかを扱った著作にビランの名前が出てくることがある。そして、ビラン研究にとって重要なことは、この三つのテーマはビランその人において重なり合っているということである。
 例えば、La pluie et le beau temps dans la littérature française. Discours scientifiques et transformations littéraire, du Moyen Âge à l’époque moderne, sous la direction de Karin Becker, Hermann, 2012 というとても面白いテーマをめぐる論文集があるが、収録された21本の論文のうち2つがメーヌ・ド・ビランをかなり詳細に取り上げていて大変興味深い。タイトルはそれぞれ、« Météores et perception de soi : un paradigme de la variation liée »、« Naissance du sujet moderne dans les intempéries : météorologie, science de l’homme et littérature au crépuscule des Lumières » である。
 この2つの論文の筆者はどちらもフランス文学研究者であり、その論文には哲学論文では扱われることのない論点についての考察が示されている。前者は、ビランの日記の記述スタイルと内容とが当時発明され社会的に流行した自己管理のためのシステムダイアリーの形式とどのような関係にあるかが問題にされ、後者では、当時の自然科学(特に気象学と生理学)の進歩とビランの自己観察とがどのような関係にあるかが考察されている。どちらもビランの日記と当時の一次資料に基づいた実証的な歴史研究になっている。
 ビランの哲学は哲学史において「分類できない inclassable」と形容されることがある。哲学史内部にとどまるかぎり、そのような評言はそれとして理解できる。しかし、ビランの哲学をよりよく理解するためには、哲学としてのレッテル貼りはひとまず留保し、ミッシェル・アンリのビラン論は括弧に入れ(「封印しろ」とは言わない)、ビランが生きた時代の政治状況・社会的変化・自然科学の躍進等を考慮に入れる哲学の〈外〉への眼差しとそれらの視角からビランの哲学を考察する〈外〉からの眼差しとの両方が必要だと私は考える。
 そのために上掲の2つの論文は有力な手がかりを与えてくれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「自己」の外なる「内なる無辺の大地」に自ずと実る智慧を待ち望み続けた哲学者

2024-10-26 23:59:59 | 哲学

 Jean-Louis Chrétien (1952 - 2019) は私にとってもっとも大切な哲学者の一人であり、ちょうど二十年前に読んだ Promesses furtives (Les éditions de Minuit, 2004)、そのなかでも特に第6章 Trouver et chercher はいまだに汲み尽くせぬ思索の源泉の一つであり続けている。
 その章のなかにメーヌ・ド・ビランが引用されている箇所がひとつだけある。それは、問題の解答を知的な「努力」を払って探すのではなく、問題そのものが自分のなかでいわば時熟するのを待つとき、その結果として最も良い解答が自ずと得られるというハーバート・スペンサーの経験談を取り上げた段落に引き続く段落のなかである。
 この時熟の待機は、夢想的な受動性のなかで僥倖を期待することではない。そうではなく、私たちのなかで問題が徐々に成熟するにまかせるとき、その問題を解決するための私たちの能力もそれに応じて成熟していくことである。メーヌ・ド・ビランが1816年6月22日の日記に記していることも同様の経験を語っているとクレティアンは言う。クレティアンが部分的に引用している当該の段落の全文を読んでみよう。

Je reconnais quelque progrès à mesure que j’avance dans la vie, en ce que je trouve simples et naturelles des idées auxquelles je ne me serais élevé autrefois que par effort. On peut reconnaître les hommes vraiment habiles et maîtres de leur sujet au ton de simplicité et de bonhomie qu’ils mettent dans leurs discours ; ces grands élans, ces airs de prétention, ce charlatanisme de mots pompeux, cette artificieuse éloquence, tout ce qui en impose aux sots s’allie le plus souvent avec le vide des idées et la plus grande ignorance. Quel homme d’esprit et de vraie science peut s’applaudir ou s’enorgueillir en lui-même de ce qu’il sait et conçoit avec facilité des idées communes les plus familières ? Quand une âme est élevée et qu’un esprit est vraiment éclairé, les grandes pensées, les idées profondes y germent naturellement : c’est le produit spontané du sol, et la spontanéité exclut tout sentiment d’effort, tout mérite d’une difficulté vaincue. (Journal, tome I, p; 149)

 かつては「努力」によってようやく到達できた考えが今では単純で自然だと思えるとき、私は自分の人生におけるいくらかの進歩を認める。真に己が扱う主題に熟達している人たちは、そのスピーチの単純で親しみやすい調子で分かる。大げさで、これ見よがしの、手の込んだ饒舌、愚かな人たちを圧倒しようとするあらゆる手管は、ほとんどの場合、そのように披瀝された考えが実は空っぽでどうしようもない無知の結果にほかならないことを示している。真の学識を備えた精神の持ち主は自分がほんとうによく知っていることなどわざわざ自慢しようとするだろうか。魂が高められ、精神が真に光に照らされているとき、偉大なる思想や深遠な考えはそこに自然に芽吹く。それは大地のおのずからなる実りであり、その自発性には、努力の感情は微塵もなく、困難を克服した功績の欠片もない。
 このような実りが己のうちに自ずと熟したことが確認できたとき、人はそれを自分の手柄とするのではなく、その「自然の実り」とそれを恵んでくれたものに感謝を捧げるはずである。
 ビランは、「内部世界」で己の努力によって何かを獲得しようとしたのではなく、直接与えられる自己触発的な内感の確実性をそこに発見したのでもなく、外界から独立した精神の自由を確保しようとそこに立てこもったのでもなく、「自己」の外なる未踏の「内なる無辺の大地」を探索し、そこに自ずと実る智慧を注意深く待ち望み続けた哲学者であったように私には思われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


メーヌ・ド・ビランの公生涯と内省との間の振り幅、精神の世界の広がりと深さ

2024-10-25 23:59:59 | 哲学

 メーヌ・ド・ビラン(1766‐1824)はナポレオン一世(1769‐1821)と同時代人である。フランス革命時には、王党派軍人としてヴェルサイユ宮殿の防衛に当たり、九死に一生を得る。その後三年間パリで過ごし、先祖代々の領地があるベルジュラックに戻り、そこから彼の政治家としての生涯が始まる。
 人前で話すのが苦手だった(声が弱々しく、議会での演説を代読してもらうほどであった)にもかかわらず、波乱に満ちた時代状況であったにもかかわらず、政治家として出世の階段を上り、国会議員、国務顧問官などの要職を歴任する。
 ナポレオンがエルバ島を脱出し、パリへと向かっているとき、ビランはパリからそれを知らせる手紙を受け取る。その日1815年3月12日の日記にビランはこう記している。

Journée pluvieuse. J’étais tranquillement établi dans mon cabinet solitaire, relisant mes manuscrits métaphysiques, lorsque je fus interrompu à 3 heures par la réception du courrier de Paris. J’achève une note que j’avais commencée et j’ouvre ensuite une lettre qui m’apprend que Bonaparte est en France, que les Chambres sont convoquées et que je dois me rendre tout de suite à mon poste. À l’instant il se fait une révolution dans tout mon être. Je passe rapidement du calme le plus profond à l’agitation la plus vive ; ma tête s’égare, mon estomac se ferme ; je dîne à la hâte et j’ordonne mes préparatifs pour le lendemain.

一日雨模様。 独り書斎で静かに座り、形而上学草稿を読み直していた。午後三時、パリから受け取った手紙で中断させられる。 書きかけのメモを書き終え、手紙を開くと、ボナパルトがフランスにいること、議会が召集されたこと、そして自分の職場に直ちに向かわなければならないことを知る。 その瞬間、私の全存在が覆される。私は最も深い静寂からこの上ない動揺へと急転する。 頭がふらつき、胃が締めつけられる。急いで夕食をとり、翌日の出発の準備を命じた。

 ビランの人生の振り幅の大きさを示す一事例だが、当時としても、いやたとえ今日であったとしても、哲学者としては例外的な生涯をビランが送ったことがそこからわかる。孤独な哲学者の形而上学的内省と波乱含みの政治的生涯との間の振り幅、そのなかで綴られた日記の中に表された精神の揺曳と錯綜する思索、同時代の称賛を受けた受賞論文、出版に至らずに残された膨大な草稿、最晩年の魂の苦悩と絶望、そして超自然的な恩寵の待機、これらをすべて視野に収める研究としてはいまだにアンリ・グイエの Les conversions de Maine de Biran (Vrin, 1948) を超えるものはない。
 ただ、今年、ビラン没後二百年ということもあるのだろうが、Emmanuel Falque の Spiritualisme et phénoménologie. Le cas de Maine de Biran (PUF) という注目すべき一書が出版された。まだ拾い読みしただけだが、ミッシェル・アンリが造り上げたビラン像に対する徹底したアンチテーゼを全編にわたって展開している。明日からの万聖節の休暇中に少し腰を据えて読んでみようと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


哲学者の末期の沈黙 ― メーヌ・ド・ビラン『日記』最後の記事と死の前日の自筆証書遺言との間(6)後世に託された無尽蔵の遺産

2024-10-24 23:59:59 | 哲学

 メーヌ・ド・ビランは1824年7月20日午後4時に逝去した。その前夜9時頃にビランは遺書を口述筆記させている。それ以前にも何通か書いた遺書があったが、それらを破棄し、本状が自分の最後の意思であることが遺書の最後に明記されている。この最後の遺書が以前に書かれた遺書とどこがどのように異なっているのかはわからない。
 この最後の遺書の口述には4人の証人が立会い、口述された遺言は、公証人によって字句通り書き留められ、口述後公証人によって読み上げられ、ビランによって承認されたことを4人の証人が確認するという手続きを経た法的に有効な遺書である(Maine de Biran, Œuvres, tome XIII-3, Correspondance philosophique 1805-1824, Vrin, 1996, p. 892-894)。
 遺書の前文には、身体的には病気であるが、その精神は健全であり、判断・記憶・悟性も確かであることが公証人および証人たちとの会話によって確かめられたと記されている。
 遺書本体には、順に、妻に遺す不動産と動産、二人の娘に移譲される動産、家政婦へ支給される生涯年金の年額、召使いへの一時謝礼金額とビラン没後の給金の保証等についての簡潔な記述が続いているが、家政婦スゼット・デムランへの遺言が妻への遺言より若干長く、二人の娘へのそれより倍近く長いことが目を引く。
 ビランは、自分の没後もスゼットが家に残り、妻と子どもたちに仕え続けることを望んでいる。妻と子どもたちがスゼットを大切にすることは、彼女が自分に尽してくれた間ずっと変わらなかった熱意と献身からして当然のことだと確信している。
このような遺書を死の前日に口述できたことは、先日19日の記事で引用した医師の以下の所見が必ずしも外からの上辺だけの観察に尽きるものではないことの一つの証左にはなるかと思う。

M. Maine de Biran conservait d’ailleurs toute la sérénité & tout l’usage, toute la force de son esprit. On aurait dit que son âme se rendait de jour en jour plus indépendante d’une organisation que l’on voyait s’affaiblir, se détruire, sans pouvoir opposer aucun obstacle à cette destruction qui fut consommée le 20 juillet 1824, sans effort, sans agonie, je dirai presque avec les apparences & le bienfait d’une mort subite.

メーヌ・ド・ビラン氏は、しかも精神のまったき平静さ、その十全なる運用、そのすべての力を保持していた。 彼の魂は、弱体化し自壊していくのが目に見える組織から日を追って独立していくかのようであったが、この自壊に対していかなる障壁も設けることはできず、1824年7月20日にその肉体の自壊は完遂された。しかし、そこには、強いてする努力も末期の苦しみもなく、いわば、ほとんど突然訪れた死の様相と恩恵を伴っていた。

 最後の日記以後の約2ヶ月間の哲学者の沈黙は、その間の内面世界の「気象」を永遠に封印してしまった。しかし、内面世界のコロンブスたらんとしたビランは、その日記と諸著作とによって、いまだに発見されることを待っている無限の内面世界を無尽蔵の遺産として私たちに託してくれたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


哲学者の末期の沈黙 ― メーヌ・ド・ビラン『日記』最後の記事と死の前日の自筆証書遺言との間(5)絶望のうちにあって待ち望む

2024-10-23 13:44:32 | 哲学

 ビラン最後の日記の最終二段落を読む。

 Mens sana in corpore sano. La réunion des deux bien nécessaire pour que l’homme soit entier, mais comment l’est-elle ? On peut avoir un corps frêle avec une âme forte et une âme forte et une âme lâche et faible avec un corps bien constitué ; c’est là ce qu’on voit, mais ce qu’on ne voit pas, ce sont les rapports secrets et intimes qui unissent et intimes qui unissent une certaine partie de l’organisation avec l’âme sentante et pensante. Il y a certainement telles parties organiques qui sont pour ainsi dire en liaison, en contact intime avec l’âme ; suivant qu’elles sont disposées bien ou mal, l’âme s’affecte tristement, se sent faible ou forte, se représente clairement ou voit tout dans les nuages et le trouble etc…
 Je ne crois pas qu’indépendamment de telles dispositions (non pas du corps entier, mais de cette partie organique et indéterminée dont nous parlons) l’âme pût être forte par elle-même ; j’ai le sentiment intime de cette dépendance misérable ; il faut une influence surnaturelle pour qu’il en soit autrement.

 「健全な身体に健全な精神が宿らんことを」。人がひとつの全体として完全であるためには、この二つの組み合わせがまさに必要である。 私たちは、強い魂を持ちながら弱い肉体を持つことがあるし、よく構成された肉体を持ちながら弱くだらしがない魂を持つこともある。それは私たちが目にすることだが、私たちに見えていないのは、身体組織のある部分と「感じ」・「考える」魂とを一体化させる秘めやかで親密な関係である。いわば、魂とつながり、親密に接触している何らかの有機的な部分が確かに存在する。それらがうまく配置されているかいないかによって、魂は悲しみに暮れたり、弱さを感じたり、強さを感じたり、自分自身を明瞭に表現したり、あるいはまた、すべてを雲間や混乱の中に見たりする……。
 私は、このような気質(身体全体ではなく、今話題にしているこの有機的で不確定な部分)とは無関係に、魂がそれ自体で強くなれるとは思わない。私はこの惨めな依存をこの身に感じている。それとは別の仕方で在るためには、超自然的な影響力が必要だ。

 肉体と魂との秘めやかで親密だが安定的ではない関係に長年振り回されつつ、その日々の揺れ動きをそのもっとも「身近」にあって注意深く内察し丹念に記録し続けた稀有な日記が最後に至り着いたのは、肉体への惨めな依存とは違った仕方で生きることを魂に可能にしてくれる超自然的な影響力を、つまり神の恩寵を、絶望のうちにあって待ち望むことであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


哲学者の末期の沈黙 ― メーヌ・ド・ビラン『日記』最後の記事と死の前日の自筆証書遺言との間(4)ぼろぼろになった肉体に対する最後の抵抗としての日記

2024-10-22 14:10:47 | 哲学

 今日と明日の二回でメーヌ・ド・ビラン最後の日記全文を読み終える。

 On ne peut savoir d’avance à quel degré de nullité morale et de dégoût de soi-même la maladie peut nous réduire. J’en suis la preuve vivante.
 L’homme hait son existence lorsque tous les instants sont des souffrances et que l’espoir de changer d’état est détruit : c’est en ce cas l’âme qui est dégoûtée de son corps qui ne la sert plus, importunée et fatiguée par cette machine délabrée qui l’occupe malgré elle, en ne lui envoyant plus que des impressions pénibles, tristes, décourageantes, qu’elle ne sent plus la force de changer ni de distraire. Comment se fait-il que l’âme tombe dans cet abattement, cette misère par certaines modifications organiques dont il lui est impossible de se dégager par sa force propre, tandis que dans d’autres altérations de la machine, l’âme se sent entière et capable de faire taire le corps ? Celui qui pourrait assigner les conditions de ces états connaîtrait à fonds la nature humaine.

 病気が私たちをどの程度の道徳的無価値と自己嫌悪に陥らせうるのか、あらかじめ知ることはできない。私がその生きた証拠である。
 すべての瞬間が苦しみであり、自分の状態を変える希望が破壊されたとき、「人間」は自分の存在を憎む。この場合、魂は、もはや自分の役には立たない肉体に嫌気がさし、自分の願いとは裏腹に自分を占領し、苦痛と悲しみと落胆に満ちた印象しか送ってこないこの老朽化した機械に悩まされ、疲れ果て、もはやそれを変えることも気をそらすこともできないと感じる。魂が、自らの力ではそこから解放されることが不可能なある種の器質的変化によって、このような落胆や不幸に陥る一方で、この機械の他の変化においては、魂は完全で肉体を黙らせることができると感じるとは、いったいどうしてそんなことがありうるのだろうか。このような諸状態の条件を見極めることができる人がいるなら、その人は人間の本質を知り尽くしているだろう。

 魂がそこから解放されることが古代ギリシアから願われてきた牢獄としての肉体は、一度病気になれば、どこまで人間を道徳的に苦しめ自己嫌悪をいだかせるかわからない。病気は、場合によっては、それが肉体にもたらす苦しみからの解放を願うエネルギーさえ奪ってしまうところまで深刻化する。
 しかし、ビランは、そのようにぼろぼろになってしまった自分の肉体に対して、日記を記し続けることそのことによって最後の抵抗を試みているかのようだ。
 ビランは、日記において自らを証人として召喚し、肉体がどこまで魂を支配しうるのかを包み隠さず証言させた最初の哲学者であろう。