内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

夢に対する「思いやり」

2024-09-30 23:59:59 | 読游摘録

 西郷信綱は、その名著『古代人の夢』(平凡社ライブラリー、1993年)のなかで、南方熊楠の「自分を観音と信じた人」という論考から次の一文を引用している。「東西人共多分は、現代の世相人情を標準として、昔の譚を批判するから、少しも思ひやりなく、一概に古伝旧説を、世にありうべからざる仮托虚構でデッチ上た物と断ずる」(16頁)。そしてそれにこう続ける。

この「思ひやり」は事象を時代の文脈そのもののなかで見ることで、歴史的想像力という言葉におき変えることもできる。これはしかし、たんに過去と現代との間にあてはまるだけでなく、夢と覚醒との関係にもあてはまる。夢を覚醒時の意識を以て他の何ものかに因果的に還元してはなるまい、夢はまさしく夢として現実なのであって、部分的覚醒ではないからだ。仏法のありがた味を説くための方便説話ではあるが、かくしてここには夢を信ずべきものとした文化の一つの型が示されているといえる。(同頁)

 文中の「方便説話」は、引用部分の前に全文が掲げられた『今昔物語集』の「信濃国王藤観音出家語」(巻十九第十一話)を指している。夢を信ずべきものとした文化の下限がいつごろなのか、私にはよくわからないが、西郷は同書のなかで、夢の神性が信じられた時期の下限を平安末期ないしは鎌倉初期あたりとしている。
 『古典基礎語辞典』(角川学芸出版、2011年)の「ゆめ」の項の解説にはこうある。

今日一般的にはユメは眠っている当人の潜在意識に由来すると考えられているのに対して、古代においては、睡眠中には覚醒しているときの世界とは別のもう一つの世界が存在すると信じられており、そこで見えたものであるユメは、他者の意思によって眠っている人物に告知される指示や訓戒、あるいは断罪などさまざまの知らせであると考えられていた。神仏のお告げをはじめ、現実世界でこれから起こることの予言と見なされることが多く、政策の決定や軍事行為などの重大な局面にユメが決断の拠り所にされることもあった。
そのため、ユメの内容には日常的に注意が払われ、「夢合はせ」「夢解き」など、ユメを分析・判断して吉凶を占うことが行われ、それを職業とする者もあった。悪いユメを見たときには、ユメによって予告されている現実の災厄を避けるためにまじないをしたり呪文を唱えたりして、正夢にならないようにした。現在にも残る、悪夢を吉夢に取り替える夢違観音信仰など、現実の世界に作用を及ぼすユメの不思議な力が信じられていたことをうかがわせる習わしは多い。
一方で、覚醒すればたちまちいっさいが消失するところから、修辞的表現上は、はかないもののたとえに用いられた。

 夢に対して南方熊楠のいう「思ひやり」なくして古典文学の理解はおぼつかないのは言うまでもなく、夢を別世界とする古代の信仰を荒唐無稽と一蹴する「近代人」がそれだけ豊かな現実世界を生きているとも必ずしも言えないように思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


夢の通い路、あるのかも知れない ― 『瘋癲老人酔夢譚補遺』(刊行予定なし)より

2024-09-29 10:16:19 | 雑感

 先週、ちょっと、いや、かなり、不思議な経験をした。
 半年以上お互いに無沙汰をしていたある人からメールが届き、会って話がしたいという。驚いた。なぜなら、その人のことをその前週に私は夢に見ていた。その夢の前に確かにその人のことをときどき思い出してはいた。しかし、その夢を見る直前の覚醒時の現実のなかにその人のことを思い出させる直接的なきっかけはなにもなかった。
 その夢のなかではその人となぜかパリで会っている。会話の内容その他、細部はすっかり忘れてしまったが、何か中世の面影を残す古い建物のアパルトマンの仄暗い一室でのことであったことは覚えている。その人はとても元気そうで、輝くような笑顔であった。私としては実に珍しいことに、気持ちを穏やかにしてくれる雰囲気に満たされた夢であった。
 このブログでなんどか言及しているように、私は普段碌な夢を見ない。目覚めては、なんで夢の中でまで毎晩こんなに苦しめられなくてはならないのだろうと嘆息ばかりしている。夢違観音に詣でたいところだが、フランスではそれも叶わぬ。その夢はだから私にとって実に例外的な内容だったのである。
 で、昨日その人と会い、Les Innocents というレストランで夕食を一緒した(このレストラン、私的特薦です)。楽しかった。話していてさらに驚いたのは、私が夢にその人を見た日の前後、普段はストラスブールで暮らしているその人が実際にパリに居たというのである。
 夢の通い路、あるのかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「痛み douleur」と「苦しみ souffrance」とを質的に区別する ―『ケアとは何か』のよりよき理解のために

2024-09-28 23:59:59 | 講義の余白から

 先週の水曜日の演習で導入した第三の「補助線」は、「痛み douleur」と「苦しみ souffrance」との質的な区別である。この問題は私にとって三つの「補助線」のなかでもっとも重要な考察主題である。
 実際、この問題については、2019年5月12日から6月10日にかけて「受苦の現象学序説」と題した30日連続の連載のなかでかなり立ち入って考察している。しかし、実のところは、主にルイ・ラヴェル(Louis Lavelle, 1883-1951)の Le Mal et la souffrance (1940) の注解という形に終始し、「受苦の現象学序説」はそこで中断したままになっている(このブログはそんなのばっかりですけどね)。それに、その時点ではケアの問題はまったく視野に入っていなかった。 
 今回、演習で特に取り上げたのは、「痛み」と「苦しみ」の質的違いがどのように医療・看護・介護さらにはもっと広い意味でのケアと関わるのかという論点である。ただ、その際に上掲の連載時に考えたことが暗黙の前提になってはいる。
 以下、その連載の中から「痛み」と「苦しみ」の質的違いを考察するにあたって重要だと思われるいくつかの対比点・関係性を抽出してみる。

痛みは「被る」(subir)ものである。それに対して、苦しみは私が為している行為(acte)である。
痛みは、たとえ持続する場合でも、本来的に非連続なものである。それに対して、苦しみはつねに持続的なものである。
私たちは自分が無関心でいられる対象について苦しむことはない。
痛みは善悪に関わらないが、苦しみは善悪に関わる。
痛みに苦しむことを通じて自己のより深い現実が開示されることがある。

 痛みには、その箇所・原因・程度等に応じて、一定の合理的な処方によって緩和・鎮静が可能であるという客観的共通性があるが、苦しみは苦しむ人それぞれにとって個別的であり、その個別性に応じた対応が必要である。苦しみはその解消あるいはそこからの解放が必ずしも最終目的とはならない。苦しむことを通じて人は自分にもそれまで隠されていた未知の自分と出遭うことがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「依存 dépendance」を内包した「自律 autonomie」―『ケアとは何か』のよりよき理解のために

2024-09-27 07:23:20 | 講義の余白から

 一昨日の演習で提示した第二の「補助線」は、自立と自律の区別及び自律と依存との関係という論点である。
 『ケアとは何か』第二章「〈小さな願い〉と落ち着ける場所――「その人らしさ」をつくるケア」には、「自律」と「自立」が違った節で別々に取り上げられている。
 「3 文化的願い」では、イヴ・ジネスト、ロゼット・マレスコッティ『「ユマニチュード」という革命』(誠文堂新光社、2016年)から、四肢が麻痺していて自分の手でリモコンを扱えない人が看護師の助けを借りて自分で見たい番組を選択するという例を引いた後で、村上靖彦氏はこう述べている。

願いを聴き取り、叶えるケアが、ここでは自律と結びつけられている。自律とは、一人で生活できることではなく、自分自身の願いを具体化できることなのだ。

 だが、これだけでは十分に「自律」の意味を引き出したことにはならない。英語の autonomy もフランス語の autonomie もギリシア語の autonomos に由来し、autos は「自分自身に」、nomos は「法律、規則」である。つまり、「自律」とは、自ら自分の行動規則を定め、それに従って行動することである。したがって、上掲の例のように、四肢が麻痺した人が看護師さんにリモコン操作をしてもらって自分の見たい番組を選択することも、それがその人自身が定めたルールであり、それを実行したのであるならば、「自律」と言うことができる。この例を一般化すれば、「自律は介助を内包しうる」となる。
 同章の「5 チームワークで願いを叶える」には、「自立とは何か」と題された節があり、脳性麻痺の当事者であり、小児科医であり、当事者研究の推進者としても活躍している熊谷晋一郎氏の言葉が引かれている。

「自立」とは、依存しなくなることだと思われがちです。でもそうではありません。「依存先を増やしていくこと」こそが、自立なのです。これは障害の有無にかかわらず、すべての人に普遍的なことだと、私は思います。

 これを英語やフランス語に訳す場合、「自立」を independence, indépendance と訳すことには無理があり、「自律」に相当する語 autonomy, autonomie を当てることになるだろう。なぜなら、前者は「依存 dependance, dépendance」の対義語であるのに対して、後者は、上に見たように、「依存」と相互排他的な関係にはなく、それを内包しうるからである。
 誰にも依存しない「自立」が虚構あるいは幻想に過ぎず、すべての人は相互依存的であるとする議論よりも、依存を内包した自律のあり方のさまざまな可能性を具体的に模索・検討・現実化するための議論のほうが生産的であろう。
 この点に関して、ロールズの正義論批判においては論点を共有しながら、依存論に関してはエヴァ・フェダー・キテイと一線を画すマーサ・ヌスバウムの議論が参考になる(« The future of feminist liberalism », in E. Feder et E. F. Kittay (dir.), The Subject of Care. Feminist Perspectives on Dependency, Lanham, Rowman & Littlefield, 2003, p. 186-214)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


患者のサインは、「信号」ではなく、「記号」である ― 『ケアとは何か』のよりよい理解のために

2024-09-26 14:16:41 | 講義の余白から

 『ケアとは何か』を学生たちと読み進めていく中で、本書の理解を深めかつ関連する諸問題に広く目配りができるように、一方では、村上靖彦氏の他の著作や氏が本書のなかで言及・引用している他者の著書なども紹介し、他方では、重要概念の理解を助ける「補助線」となるような論点も導入している。
 昨日の演習では、第一章の第一節で取り上げられている、患者のサインをいかにキャッチするかという問題に関連して、「信号 signal」と「記号 signe」の違いについて話した。そのとき、引用はしなかったが念頭に置いていたのは、フロランス・ビュルガの Qu’est-ce qu’une plante ?(『そもそも植物とは何か』)のなかの次の一節であった。

Les plantes voient-elles la lumière ? Non, les plantes sont comme si elles percevaient, comme si elles étaient sensibles. Un stimulus n’est pas un signe. Ce dernier désigne, annonce, représente quelque chose d’absent ou qui n’est pas donné en pleine présence. Les plantes ne vivent pas dans un monde de signes, c’est-à-dire un monde où circule du symbolique. Jacques Tassin, nous l’avons vu, parle d’ailleurs de « signal » et non de signe. Ce dernier est porteur d’une équivoque absente dans le signal. Le rapport sémiotique est triangulaire. Il engage l’individu sentant et se mouvant (le « sujet-vivant », animal ou humain), le signe (une matière, une chose, un son, etc.), et la signification à laquelle il renvoie. Il comprend un tiers absent. Le rapport qui existe entre le stimulus et la réaction est binaire, jamais virtuel ou oblique.
                            Florence Burgat, Qu’est-ce qu’une plante ?. Essai sur la vie végétale, Éditions du Seuil, 2020, p. 62-63.

植物は光を「見ている」のだろうか? いや、植物は「あたかも知覚しているかのように」、「あたかも感覚があるかのように」動いているだけだ。刺激は記号ではない。「記号」とは、そこにはないもの、目の前に存在していない何かを示し、告げ、表すものだ。植物は記号の世界には生きていない。植物の世界に、記号によって象徴されるものは行き来してない。前に見たように、ジャック・タッサンは、そもそも「信号」について語っており、「記号」については語っていない。記号は、信号にはないあいまいなものを伝えている。記号の世界は三角関係だ。そこには(1)感じたり動いたりする個体(「主体としての生物」、動物または人間)、(2)記号(物体、事象、音など)、(3)記号によって示される「意味」、の三つが関わっている。だが、三つのうちのひとつ、「意味」は実際には存在しないものだ。そして「刺激と反応」の関係性は一対一だ。そこに潜在的なもの、間接的なものは関わっていない。
              『そもそも植物とは何か』(田中裕子訳、河出書房新社、2021年、67‐68頁、一部改変)

 訳のなかの「実際には存在しない」は明らかに不適切である。意味は、個体と記号と同次元には不在である第三項である限りにおいて意味として機能するという前提でこの「三角関係」が述べられているからである。つまり、意味は、個体と記号と同じ資格でそこに存在してはいないが、実際には「不在」のまま機能としてそこに「存在」しているからである。
 それはともかく、このような「信号」と「記号」の違いを導入すると、ケアにおいては、一義的にその価値が確定していて曖昧さがなく解釈の余地がない「信号」ではなく、両義的あるいは多義的であり、解釈の余地があり、したがってその意味を捉えそこなう可能性がいつも伴う「記号」をいかに的確にキャッチするかということが課題なのだと問題を明確化することができる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「居場所」とは「「何もせずに」居ることができる場所であり、一人で過ごしていたとしても孤独ではない場所」―村上靖彦『交わらないリズム 出会いとすれ違いの現象学』(青土社)より

2024-09-25 18:38:50 | 読游摘録

 「居場所」という言葉自体は明治期から使われているが、『新明解国語辞典』(第八版)に用例として挙げられている「自分の家なのに居場所が無い」といった使い方での「身を落ち着けて居られる場所」という意味での用法は比較的最近広まったようだ。
 村上靖彦氏の『交わらないリズム 出会いとすれ違いの現象学』(青土社、2021年)によると、おそらく2000年頃から頻繁に耳にするようになった言葉とのことだ。そしてその背景には二つの文脈があるという。
 「一つは困難の文脈だ。高度経済成長から新自由主義の進展にともなって地域の共同体が壊れていき、競争社会が浸透してさまざまな排除が正当化されたため、とりわけ弱い立場に置かれた人の「場」が失われ、「居場所」をあえて人工的に作り出す必要が生じたのだろう。」(66頁)
 「もう一つの文脈は自発的なものである。浦河べてるの家や、私が関わっている大阪市西成区のこどもの里は、一九七〇年代後半に精神障害者や子どものニーズに応える形で自然発生的に生まれた居場所である。」(同頁)
 このような戦後日本社会の変化が背景にあるとしても、居場所そのものは、村上氏も言うように、「人間にとって欠くべからざる環境」なのだろう。
 そうであるからこそ「居場所」について授業で話すと学生たちが強い関心を示すのだと思う。『子どもたちがつくる町 大阪・西成の子育て支援』のなかの「居場所」についての一節は9月14日の記事で触れたが、この一節は学部の「日本思想史」の授業の中でも修士の演習の中でも紹介した。どちらでも「受け」がよかったので、一昨日月曜日の授業と今日の修士の演習では、『交わらないリズム』から次の一節を紹介した。

 居場所とは人が自由に「来る」ことができ、「居る」ことができ、「去る」こともできる場所である。
 さらに言うと、「何もせずに」居ることができる場所であり、一人で過ごしていたとしても孤独ではない場所である。なぜ一人で居ても孤独ではないかというと、誰かがそこでその人を気にかけ見守り、放っておいてくれるという感覚があるからである。逆説的だが、居場所とは人と出会える場所であり、かつ一人にもなれる場所のことだ。(67‐68頁)

 村上氏は居場所のもう一つの特徴を次のように説明する。

 無為に加えて居場所にはもう一つの特徴がある。それは自由な遊びが生み出される場所であるということだ。[…]遊びは、他に目的を持たない行為だ。[…]目的を持たないゆえに、居場所は戯れ・遊びの場となる。遊びは社会のなかに目的を持たない。遊び自体が遊びの目的だ。居場所が遊びの場になるのは、居場所の本質に無為があり、無為が無目的の遊びを可能にするゆえだろう。(69頁)

 この一節を紹介したときに学生たちが示した関心の強さは、ノートを取る手の動きの速さ、スクリーンに映し出された文章あるいは説明する私自身に向けられた眼差しの真剣さからよく伝わってきた。
 村上氏の平易な文体は、予習なしに読んでも内容がわかるという喜びも学生たちに与えている。さらには、テーマそのものに関心があるからもっと読んでみたいと学習意欲も高める。授業で使わせていただく身としては大変ありがたい教材である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


今年度日仏オンライン合同授業・第1回目

2024-09-24 23:59:59 | 講義の余白から

 今朝、6時20分から7時50分まで、法政大学哲学科の学部生15名とストラスブール大学日本学科修士課程一年生13名、法政側のK先生と私も含めて30名で今年度最初のオンライン合同授業が行われた。
 法政側は今日が今年度の「国際哲学特講」の第1回目だったが、こちらはすでに演習を2回行った上で合同授業に臨んだ。授業時間を最大限有効に使うために、学生の自己紹介は第1回目の演習のときに録画してあらかじめK先生に送信しておいた。法政の学生の自己紹介も後日録画が送られてくることになっている。だから、K先生の簡単な開講の挨拶後、すぐに本題に入った。
 今日の授業のためにこちらの学生には『ケアとは何か』の第一印象を日本語で3分にまとめて発表できるように準備させておいた。出席はしているものの体調不良の1名を除いて、他の12名はそれぞれに自分の考えを簡潔によく表現できていた。先週の授業でその12名はフランス語で第一印象を発表しているからすでに考えはまとまっていただろうし、今日の発表の準備のために生成AIを使った学生もいただろうが、少なくとも日本語での口頭発表に慣れるためにはよい機会であった。
 法政の学生たちは今日が初回であったから、教室での講読なしにいきなりの発表だったが、『ケアとは何か』に対する自分の関心の所在をそれぞれに短くよくまとめて発表してくれた。この本を読むまでは、「ケア」についてあまり関心がなかったし、医療や介護に携わる側の問題だと漠然と思っていた人が大半だったが、実は人間の本質に関わるテーマであること、自分たちにもさまざまな仕方で関わりがある事柄であることはすでに全員よく理解していた。
 第1回目としては上々の出来であったと評価できる。
 今後オンライン合同授業は10月、11月、来年1月の3回が予定されている。11月からはSNSとテレビ会議システムを使って日仏合同チームによる発表準備も始まる。それらと並行してそれぞれの授業も学期末まで継続される。日仏どちらの学生にとっても、他の授業や演習に比べて学習量・作業量が多く、それに遠隔での共同作業のための時間調整も加わるから、負担が大きいとは思うが、それだけ注力するだけのことはあるプログラムだと自負している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


すでに亡くなっている方の誕生日を知らせるメッセージが届く怪奇(?)

2024-09-23 17:11:38 | 雑感

 今朝、フェイスブックを開いて、ちょっとぎょっとすることがありました。既にお亡くなりになっている方の誕生日を知らせるメッセージが「お知らせ」欄に届いていたのです。
 その方には生前何度かお目にかかったこともあり、フェイスブック上の「友達」にも十年ほど前からなっていたと記憶しています。しかし、誕生日を知らせるメッセージがその方のご生前に届いたことはありませんでした。確か三、四年前にお亡くなりなっており、その逝去のお知らせはまったく別のつてから届いて知っておりました。それが今になってなぜ、とちょっと気味悪くなりました。
 SNSやブログのアカウントなど、親族あるいは身近な人あるいは弁護士などに万が一のときの処理をあらかじめ依頼し、本人に代わってアクセスできるようにしておけば、本人没後にアカウント閉鎖の手続きができますが、そのような準備を生前にしておかず、暗証コードその他アクセスに必要なデータを誰も知らなければ、亡くなった当人以外はアカウントにアクセスできません。
 暗証コード解読アプリケーションを使って調べることもできるでしょうが、コードが複雑で手掛かりも乏しければ、解読に何年もかかってしまうでしょうから、社会的な影響が大きい等の特別な理由がないかぎり、そこまでの手続きを踏むこともなく、そのまま放置されてしまっている場合のほうが圧倒的に多いのだろうと推測します。
 私のブログなど、その内容が人畜無害ですから、そのまま放置されても世間にご迷惑をお掛けすることもないでしょうし、墓の下で臍を噛むこともないだろうと思いますが、本人の没後も閲覧可能な「幽霊アカウント」が増えていく一方であることは間違いなく、それがどのようなインパクトを社会にもたらすのかは、この手のことにからっきし無知な私には見当もつきません。
 ただ、こういったことにめっぽう詳しくてかつ悪意ある輩が不正に他人のアカウントに侵入してそれを悪用するなんていうことは、アカウントの管理者が生きていても発生することですから、ましてや管理者が亡くなっていれば、まさに「死人に口なし」なわけで、私には想像もつかない悪事に利用されてしまうかも知れないと急に不安になったりもした今日一日なのでありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


あなたのご職業は? ― 他人の受け売り業です

2024-09-22 21:08:44 | 雑感

 拙ブログを今日まで寛容にもお読みくださっている方々はよく御存知のとおり、記事の大半は拙者が読んでほんとうにいいなあと思った文章の紹介に過ぎません。それらの記事にはなんらのオリジナリティもありません。
 それにもかかわらず、それらを読んでくださった方がそこから何かポジティブなものを感じてくださることがあります。そんなとき、卑下も衒いもなく、幸いこれに過ぎるものはないって、ほんとうに思っております。
 それはそうなのですが、「あなたはこのブログでいったい何をしているのですか」と街頭でいきなりマイクを突きつけられたら(って、ありえないシチュエーションですが、それはともかく)、「そうですねぇ……。一言で言えば、他人の受け売りですかねぇ……」と頼りなげに小声で答えるしかありません。
 そんな為体(「ていたらく」― この言葉、お気に入りなんです)ですから、在庫の「受け売り商品」を完売してしまったら、そのときはもう、頭の中、スッカラカン、でしょうね。
 でも、まあ、受け売り業に憂き身をやつしているに過ぎないとしても、扱っている受け売り商品を「自家製」だと「産地偽装」せず、産地(出典)を明示しつつ、「これ、ホントいいですよ」って、誠意をもってお薦めするかぎりは、少なくとも、詐欺罪には問われないでしょう。
 オリジナルな発想なんて欠片もないのですから、「企業」するわけにもいかず、受け売り業で糊口をしのぐしかないじゃないですかぁ。いわゆる「無い袖は振れない」ってやつですよ。
 というわけで、多難でしかないこれからの残り少ない人生を生きていくために、明日からもまた「受け売り業」を続けてまいります。どうか、ご贔屓のほど、よろしくお願い申し上げまするぅ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


名前で呼ばず、番号で示す非人称化の暴力性

2024-09-21 15:53:21 | 読游摘録

 昨日紹介した『医療とケアの現象学』の最終章「ICUナースによるICU での患者経験から 交錯する患者の視点と看護師の視点」で村上靖彦氏が詳細な考察を行っているのは、急性・重症看護専門看護師としてICUでの勤務経験が長い宇都宮さんが突然の病で(知り合いのいない病院の)ICUに35日間入院したときの経験である(この宇都宮さんは『ケアとは何か』にも登場していて、このときの入院が髄膜炎によるものであることがわかる)。
 インタビューには、ICU入院経験のなかで宇都宮さんが患者として経験したこと、現役の看護師としての視点から気づいたこと、退院後に看護師として反省的に考えたことなどが交互にあるいは交錯した仕方で語られている。それらの宇都宮さんの発言を丁寧に解析していくことで、村上氏は看護をめぐるいくつかの重要な問題を浮かび上がらせていく。
 入院した宇都宮さん自身が看護師として高度な技能と豊かな経験をもっている方だけに、自分が患者として経験したICUの「非人間な」環境への患者の視点からの批判的な眼差しは厳しい。「刑務所のように、時間になったら電気をつけられ、時間になったらぱちんと切られるんですよね。」(240頁)
 そこから看護がどうあるべきかという帰結が引き出される。一つは、ICUで患者が失っている自然なリズムに対して注意深くあること。「非人間的な所」であるだけに、「人間性的なところ」を患者は求めているから、それに具体的に応える。例として挙げられているのは、朝、患者さんに蒸しタオルでリフレッシュしてもらうようにすること。
 この他にも重要な問題点が指摘され、それぞれに興味深いのだが、私自身が特に注意を引かれた一点のみを今日の記事では述べておきたい。
 それは「人格としての自己性が失われる環境」と題された節に見られる指摘である。ICUがオープンスペースということもあり、看護師間のやり取りでは、患者を名前で呼ばず、ベッドの番号で指す。これは宇都宮さん自身過去にしていたことだという。
 この点について、村上氏は、「単に番号で呼ばれるという非人称化が生活を剥奪して「患者」化するだけでなく、どの番号で呼ばれているのかもわからないという二重の非人称化が妄想を賦活する」と指摘している(248頁)。ただ、この文に付された脚注で、プライバシー保護という意味もあるから、一概に良し悪しは決められないと断っている。
 たとえICU入院中という限られた期間であれ、自分の氏名が剥奪され、番号によって置き換えられるという経験は相当に深いショックを患者に与えるのではないかと想像する。人からその名前を剥奪し番号化することは、各自の個別性を否定し非人称化する。それは深刻な精神的暴力でありうる。だからこそ強制収容所で囚人たちはすべて番号で呼ばれていたのだ。
 まったく別の文脈だが、名前で呼ぶことの意味を逆の側から例証している話を聞いたことがある。農業高校で豚の飼育実習をする際、飼育される豚に名前を付けることは禁じられており、豚たちはすべて番号で呼ばれるという。その理由は、名前を付けると「情が湧いて」しまい、最終的に屠殺することがそれだけ大きな苦痛になるからだという。
 上掲の宇都宮さんのICUでの経験は、名前を剥奪あるいは名前をそもそも付けないで番号化することで、皆それぞれに自分の名前を持っており、お互いに相手をその名前で呼ぶというごく当たり前のことの基底にある相互関係性・コミュニケーション性が損傷を受けることを例示している。