内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

谷川俊太郎「生まれたよ ぼく」

2024-11-30 16:34:21 | 詩歌逍遥

 今日早朝から昼過ぎまで、明後日の学部三年の授業「日本思想史」の準備とその授業で毎回実施している書き取りテストの採点に没頭していました。
 この書き取りテストは、その前に先週フランス語で説明した日本語のテキストを易しい日本語に置き換えて説明したうえで行います。重要な学習項目を三つの短い文に凝縮して書き取らせます。こうすることで授業の要点が明確になり、かつ日本の重要語彙の習得にも役立ちます。しかも、このテストの点数は平常点として最終成績に加味しますから、毎週学生たちも真剣に受けています。完璧な解答も少なからずありますが、中には同音異義語に引っかかってまったく文意に合わない漢字をあててしまっている答案や、長音が聴き取れていない(これはフランス人学習者に典型的な弱点です)答案もあります。
 明日日曜日は金曜日にパリのINLCOである博士論文の口頭審査の際の講評と質問を仕上げるために丸一日あてたかったのですが、上記の授業の準備に少し凝りすぎてしまって、応用言語学科一年生向けの「日本文明入門」の授業の準備は明日に持ち越しとなってしまいました。明日も早起きして、午前中にはその準備を仕上げ、午後は講評と質問の仕上げに集中するつもりです。
 明後日の授業でも谷川俊太郎の詩を一つ紹介します。『こどもたちの遺言』(佼成出版社、2009年)に収められた「生まれたよ ぼく」です。この詩、合唱曲にもなっているのですね。

生まれたよ ぼく
やっとここにやってきた
まだ眼は開いてないけど
まだ耳も聞こえないけど
ぼくは知ってる
ここがどんなにすばらしいところか 
だから邪魔しないでください
ぼくが笑うのを ぼくが泣くのを
ぼくが誰かを好きになるのを
ぼくが幸せになるのを

いつかぼくが
ここから出て行くときのために
いまからぼくは遺言する
山はいつまでも高くそびえていてほしい
海はいつまでも深くたたえていてほしい
空はいつまでも青く澄んでいてほしい
そして人はここにやってきた日のことを
忘れずにいてほしい


I’ve Been Born a Boy

I’ve been born a boy.
Finally I came here.
 Though my eyes are still closed
and though my ears can hear nothing yet,
I know
What a wonderful place it is here.
So please don’t interrupt
my laughing, my crying,
my liking someone
and may becoming happy.

For the sake of some day in future
when I shall leave here, 
I now leave a will in which
I wish the mountains to keep soaring up forever beautiful,
the sea to be brimming with water forever deep, 
the sky to be forever blue and clear
and  the people to keep remembering
the day when they first came here.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「世界の微笑がひそんでいる」― 谷川俊太郎「ありがとうの深度」より

2024-11-29 16:58:34 | 読游摘録

 『自選 谷川俊太郎詩集』(岩波書店、2023年)電子書籍オリジナル版には、岩波文庫版(2013年)の同名詩集には収録されていない2013年以降の作品が以下の11冊の詩集から26篇追加収録されている。『ミライノコドモ』(岩波書店、2013年)、『こころ』(朝日新聞出版、2013年)、『おやすみ神たち』(ナナロク社、2015年)、『詩に就いて』(思潮社、2015年)、『あたしとあなた』(ナナロク社、2015年)、『いそっぷ詩』(小学館、2016年)、『バウムクーヘン』(ナナロク社、2018年)、『普通の人々』(スイッチ・パブリッシング、2019年)、『ベージュ』(新潮社、2020年)、『どこからか言葉が』(朝日新聞出版、2021年)、『虚空へ』(新潮社、2021年)。
 毎日それらの作品のうちのいくつかを谷川俊太郎自身の朗読で聴き、自分でも声に出して読んで味わっている。

 

ありがとうの深度

心ここにあらずで
ただ口だけ動かすありがとう
ただ筆だけ滑るありがとう
心得顔のありがとう

心の底からこんこんと
泉にように湧き出して
言葉にするのももどかしく
静かに溢れるありがとう

気持ちの深度はさまざまだが
ありがとうの一言に
ひとりひとりの心すら超えて
世界の微笑がひそんでいる


The Depths of “Thank You!”

“Thank you!” with no heart,
Just lips.
“Thank you!” just smoothly written.
“Thank you!” proudly expressed on a face.

“Thank you!” calmly overflowing,
welling up like a fountain
from the depths of the heart,
impatiently waiting for utterance.

Though the depths of feeling are different,
in this sound of “Thank you!”
the world’s smile is hidden,
transcending even each person’s heart.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


人の最期を看取る場所、終末期病棟 ―『お別れホスピタル ⑬』本日発売

2024-11-28 23:59:59 | 読游摘録

 今年度の日仏合同ゼミのテーマとして「ケアの倫理」を取り上げようかなと考えはじめたのは今年の二月のことでした。そう思うようになったきっかけの一つはNHKドラマ『お別れホスピタル』でした。
 このドラマの第一回目を何の予備知識もなしに観て、いたく感動し、エンドロールを見てはじめて、同名原作漫画の作者が『透明なゆりかご』の沖田☓華さんだと知りました。躊躇なく、その時までに刊行されていた11巻の電子書籍版を直ちに購入し、全巻一気に読みました。以後、第12巻も発売と同時に購入し、今日は予約注文してあった第13巻の発売開始日でした。
 そもそも終末期病棟をテーマとすること自体が漫画として稀有なことですが、一話ごとに細やかに描かれた患者さんのそれぞれに異なった最期にはその人の人生が凝縮されています。過酷な労働条件下でその最期を看取る看護師さんたちの姿から、末期のケアとは何なのかという問いへと自ずと導かれます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


谷川俊太郎「ありがとう」

2024-11-27 23:59:59 | 詩歌逍遥

 弊日本学科の現代文学史の授業で詩が取り上げられることはほとんどない。その大きな理由の一つとして時間が足りないということは確かにあるが、そもそも小説や批評に比べて詩が軽視される傾向があることも否めない。これは古典文学史との大きな違いである。
 今週、学部三年生と修士の一・二年生に、日本の現代詩人で知っている名前があるかと訊ねてみたら、誰も一人も挙げることができなかった。一人、「サ、サイギョウ?」と呟いていた学生がいたが……。
 学生たちが少しでも現代詩に関心を持ってくれるようになればと、吉野弘の「I was born」や「夕焼け」を私の授業で紹介したことはあったが、文学史の授業でもなく単発に終わった。
 今月13日にまさに国民詩人の名にふさわしい谷川俊太郎が亡くなられて、この機会にせめて彼の名前は覚えてほしいと思い、今担当しているすべての授業で、先日引用した「おばあちゃんとひろこ」を紹介した。まず私が一行ずつゆっくりと読み、それから谷川俊太郎自身の朗読の録音を聞かせた。まだ彼らに感想を聞く機会はないが、どう思ったかぜひ聞いてみたいと思っている。

 

ありがとう

空 ありがとう
今日も私の上にいてくれて
曇っていても分かるよ
宇宙へと青くひろがっているのが

花 ありがとう
今日も咲いていてくれて
明日は散ってしまうかもしれない
でも匂いも色ももう私の一部

お母さん ありがとう
私を生んでくれて
口に出すのは照れくさいから
一度きりしか言わないけれど

でも誰だろう 何だろう
私に私をくれたのは?
限りない世界に向かって私は呟く
私 ありがとう


Thank You!

Thank you, Sky,
for being above me today!
I know, even if cloudy,
that you are spreading blue to the universe.

Thank you, Flowers,
for blooming today! 
Tomorrow you may be falling.
But your odor and color are already part of me

Thank you, Mother,
for bearing me.
I say this only once
because it’s embarrassing.

But who is it, what is it,
that gave me Me?
I murmur to the infinite world,
“Thank you, Me!”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


言語生成システムの上手な「外注」の仕方と「内製」ならではの「匠の技」

2024-11-26 23:59:59 | 雑感

 修士ニ年の学生たちに日本語で4000字の小論文を書かせる演習では、毎回学生たちが事前に準備してくれたテキストを教室でスクリーンに映して皆で検討している。
 私は生成AIの使用は各自の裁量にまかせている。初回、「相談相手」として使ってもいいが「奴隷」のように使われるな、とだけ簡単な注意はしておいた。そして、よりよい表現を求めて「呻吟する」ことの積極的意味について自らの経験を交えて少し語った。
 学生たちが事前に提出する(というか、各自テキストを私と共有しているので、彼ら入れる直しや追加を私もリアルタイムで追うことができる)テキストを読んでいて、本人聞くまでもなく、明らかにAIに丸投げしている場合、かなり参考にはしているが自分の考えはよく表現できている場合、あくまで適切な語彙の選択のみ使用している場合、まったく使用せずに自前の文章を書いている場合など、すぐに区別できる。彼らのうちの多くとは学部時代から教室で接してきており、それぞれの実力は把握できているから、簡単に見分けられるのである。
 自動翻訳の精度はそれこそ日進月歩で、日仏語間でも、翻訳させる原文が構文的に明瞭で、語彙のレベルが安定していれば、事実の伝達を主とする新聞記事レベルの文章であれば、ほぼそのまま通用する翻訳を生成できる。ときどきまったく不適切な語彙選択をしてくるのは御愛嬌である。
 要領のいい学生は、AIに訳させるもとのフランス語の文章を平易な文体で書くから、結果として得られた翻訳もほぼ完璧である。が、中味はつまらないことが多い。誰でも書けるような文章になってしまう。この点は、AIとの対話を繰り返していくうちに、AIも本人のクセを学習していくから、徐々に改善され、「その人らしい」文章にはなっていく。しかし、本人の日本語能力は一向に伸びない。
 他方、そんなに日本語能力は高くないのに、自力だけで書いている学生もいる。当然、私の直しがかなり入る。そこで意気阻喪せずに、添削を謙虚に受け止め、新たに学んだ表現を消化して自分のものにしようとする学生は、少し時間はかかるが必ず伸びる。ときに飛躍的に上達する。
 両者の違いは歴然としている。言語生成が「外注」か「内製」かの違いである。外国語学習の過程において、「内製」を可能にする言語生成システムが機能し始める瞬間がある。それはそれぞれ本人しか経験できないことだ。私にもあった。
 その瞬間から、ちょっと大げさに聞こえるかも知れないが、それまでとは世界が違って見えるようなるのだ。世界の分節化と言語の分節化と新たな統合過程が母語の場合とは違った仕方で始動し始めた瞬間だと言ってもよい。
 この内燃機関としての言語生成システムは、「燃料」となる言葉の学びを続けていけば、つねに活動を続け、精度も向上していく。おそらく「一生モノ」である。しかも「課金」は一切発生しない。
 「外注」を上手に使うことは仕事の効率化と高速化のためにはきわめて有効な手段だし、そのためのパートナーや「取引先」と良好な関係を構築・発展させていくことは「ビジネス」の世界ではいまや必須である。
 そんな目まぐるしい「ビジネス」の世界とはまったく無縁で、自宅の一室を仕事場とする年老いた職人は「内製」にしかできない「匠の技」にこだわり続ける。ワタシハサウイフモノデアリタイ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


人を「好き」になるまでの遠い道のり

2024-11-25 20:04:21 | 講義の余白から

 ある言語の習得初歩段階で必修語彙として提示される言葉の意味は学習者にとってその語意のデフォルトとなってしまう。ところが、その意味がその語にとってもっと基底的な意味であるとはかぎらない。
 この問題は、「なつかし」を例として、このブログでもこれまで何度も話題にしてきた。今日の「日本思想史」の授業では、「すき」に即してこの問題を取り上げ直した。
 日本語学習のごく初期の段階で、自分の好みを表現する文型として、「私は~が好きです」という文型を習う。ところが、このような意味で「すき」が使われるようになるまでには、『古典基礎語辞典』(角川学芸出版、2011年)によれば、意味変遷過程において、少なくとも二つの前段階を措定する必要がある。
 平安初期には好色の意が中心的であり、その後、しだいに性的・本能的な好みから離れて、中世以降は趣味や芸道を対象として心を打ち込む方向に大きく展開した。さらに、風流の事に限らず何事でも強く愛好することに用いられるようになり、やがて一般的な好悪の感情についても用いられるようになった。
 今日の授業では、唐木順三の『中世の文学』(1955年)を参照しながら、中世において趣味や芸道に打ち込むという意味での「すき」(この意味で中世では「数奇」という漢字があてられるようになる)がどのような歴史的文脈で登場してきたのかを説明した。
 「数奇人」あるいは「数奇者」とは、他の一切を擲って一途にあることに打ち込む人のことである。しかし、このような排他的態度は、単純に本人個人の好みをその起因とするのではなく、生きるために依拠すべき公準の喪失をその時代背景として生まれた。
 何かを排他的に「すき」になることで己の実存を自ら救済しようとすること、あるいは救済を願うこと、それが「数奇」であり、そうすることに己の人生を賭けた者が「数奇者」(あるいは「数奇人」)である。
 ここまで説明したところで今日の授業は時間となった。
 来週は、中世において「数奇」がなぜ「すさび」(荒び・遊び)へと転ぜざるを得なかったかを説明する。
 そこから近代的な意味での「好き」に至るまでの道のりはまた遠い。歴史のなかで無数の人々が実際に歩いたその道のりが思想史の基底を成す。その声なき声に謙虚に耳を傾けつつ、そしてそれに真摯に問いかけを繰り返しながら一つの「ストーリー」を「紡ぎ出す」こと、それが「思想史」である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「我嘆息ト共ニ博論読了セリ」―『老残日録』(作者未詳)ヨリ

2024-11-24 20:27:58 | 雑感

 本日昼過ギ、和辻哲郎ニツイテノ博論ヲ失望ノ嘆息トトモニ読了ス。前半ハ良キ出来ト思ヒシガ、後半水準以下ナリ。期待トトモニ読ミ始メシ故、失望甚大ナリ。何ガ何デモ三年デ仕上ゲタカッタノカ、拙速浅薄杜撰、辻褄ノ合ワヌ長広舌(議論トモ呼ベヌ)ノ繰返シ後半矢鱈ニ目立ツ。
 ソレラヲ全部削除スレバ量的ニハ半分程度ニナラン。カクモ大部デ杜撰ナ博論ヲソノママ提出サセルハ指導教授二モ問題ナキニシモアラズカ。
 金銭ニ替エガタキ「貴重ナル」時間ヲ数十時間割キテ読マネバナラズ、加之無報酬、審査ノタメダケニ巴里マデ一泊二日デ出張シナケレバナラナイ身ノアハレナルカナ。「時間ヲ返セ!」ト叫ビタシ。講評執筆、質問準備、甚ダ気重シ。
 師走六日ノ口頭審査ニ於イテハ、恰モ礼節ヲ弁エテイルカノ如キ体裁ニテ粛々と義務ヲ果スノミ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


谷川俊太郎「泣いているきみ」

2024-11-23 02:38:43 | 詩歌逍遥

 昨日の早朝は気温が氷点下まで下がりました。日中には雪もちらつきました。市内ではこれがこの冬の初雪ではないかと思います。午後、その小雪が一時間ほどで止むと、途端に青空が広がりました。
 この機を逃すべからずと、朝からずっと読んでいた博論を机上に開いたまま立ち上がり、ジョギングに出かけました。40分で6キロ走って切り上げました。
 この距離でも毎日走り続ければ、今年の年間目標の4100キロには余裕で到達できます。10月まで頑張って距離を稼いでおいたのには、11月と12月は忙しいだろうと予想していたからということもあり、あとは年末までこの調子で行けばいいのかと思うと、すごく気が楽です(ッテ、自分デ課シタ数値ニ拘束サレルトイウ「あほ」ラシサハアリマスヨ、モチロン)。
 昼の休憩時に声に出して読んだ谷川俊太郎の詩「泣いているきみ」を書き写します。

 

泣いているきみ    少年9

泣いているきみのとなりに座って
ぼくはきみの胸の中の草原を想う
ぼくが行ったことのないそこで
きみは広い広い空にむかって歌っている

泣いているきみが好きだ
笑っているきみと同じくらい
哀しみはいつもどこにもでもあって
それはいつか必ず歓びへと溶けていく

泣いているわけをぼくは訊ねない
たとえそれがぼくのせいだとしても
いまきみはぼくの手のとどかないところで
世界に抱きしめられている

きみの涙のひとしずくのうちに
あらゆる時代のあらゆる人々がいて
ぼくは彼らにむかって言うだろう
泣いているきみが好きだと


You Who Are Crying
   — Boy 9 —

Sitting beside you who are crying,
I think of the grasslands in your breast.
There where I’ve never been,
you’re singing to the wide, wide sky.

I like you who are crying
as much as you laughing.
Sorrow is always everywhere
and some day will surely dissolve into joy.

I wouldn’t ask why you’re crying
even if it were because of me.
Somewhere now beyond my reaching
you are being embraced by the world.

One single drop of your tears is inhabited
by people of all ages, of all kinds,
to whom I shall say,
“I like you who are crying.”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


谷川俊太郎「おばあちゃんとひろこ」

2024-11-22 01:13:34 | 詩歌逍遥

 12月7日まで「サイテー・モード」だと言いましたが、その主な理由は、12月6日に審査員として参加するパリのINALCOでの博士論文の口頭審査のために審査対象の博士論文を読むことに集中しなければならないということです。
 その博士論文は、和辻哲郎の倫理学と政治思想をテーマとしていて、本文だけで580頁近い大作ですが、大変明快な論旨で気持ちよくハイスピードで読むことができ、今週末には一応読み終えられそうです。
 その後、残りの十日ほどで講評と質問を準備しなくてはなりません。すべての審査員(今回は5名)の講評と質問は、審査後に審査委員長がまとめる最終報告書に統合されるので、あらかじめ書いておいて審査後すぐに委員長に提出できるようにしておくことが望ましいのです。
 その上、12月前半には修士の演習が週に三つ集中するので、その準備にも時間が取られ、ブログの記事のために呻吟している時間はないというのが実情です。
 だからとって、くだらない御託を並べるのは本意ではありません。そこで、自分でも仕事の合間の休息時に声に出して読んで心を潤わせている谷川俊太郎の詩を、毎日一つずつ書き写していこうと思います。出典は、電子書籍オリジナル版の『自選谷川俊太郎詩集』(岩波書店、2023年)です。この版には、谷川俊太郎自身の朗読(音質はあまりよくありません)と英訳も付いています。

おばあちゃんとひろこ

しんだらもうどこにもいかない
いつもひろこのそばにいるよ
と おばあちゃんはいいました
しんだらもうこしもいたくないし
めだっていまよりよくみえる

やめてよえんぎでもない
と おかあさんがいいました
こどもがこわがりますよ
と おとうさんがいいました
でもわたしはこわくありません

わたしはおばあちゃんがだいすき
そらやくもやおひさまとおなじくらい
おばあちゃん てんごくにいかないで
しんでもこのうちにいて
ときどきわたしのゆめにでてきて

おっけーとおばあちゃんはいいました
そしてわたしとゆびきりをしました
きょうはすごくいいてんき
とおくにうみがきらきらかがやいて
わたしはおばあちゃんがだいすき

Grandma and Hiroko

“When I die I’m not going anywhere.
I’ll always be beside Hiroko,”
Grandma said.
“When I die my hips won’t hurt any more.
Even my eyes will see more clearly than now.”

“Don’t talk in that hurtful way,”
my mother said.
“You’ll scare the child,”
my father said.
But I’m not scared.

I like my grandma very much,
as much as the sky, the clouds, the sun.
“Grandma, don’t go to heaven!
Even if you die, stay here in our house
and show up in my dreams some times.”

“OK,” grandma said,
and we promised by locking little fingers.
The weather’s wonderful today.
The sea way out there is shining.
I like my grandma very much.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


私は只世界(コスモス)の中に生きるすばらしさに気づいたのだ」― 谷川俊太郎を讃えて

2024-11-21 00:00:00 | 詩歌逍遥

 一昨日、谷川俊太郎の逝去をネットのニュースで知った。今月13日に老衰のため都内の病院で亡くなられたとのこと。享年92歳。1931年12月15日生まれだから93歳の誕生日まであと一ヶ月ほどだった。
 特に熱心な読者ではなかったけれど、必ずしも彼の手になるものだとは最初は知らずに触れてきた童謡や翻訳やアニメの主題歌も含めれば、彼の作品は子供の頃から今日までずっと身近にあったことに訃報に接してあらためて気づく。
 「追悼」という言葉は彼にはふさわしくないように思う。「悼む」よりも、詩人としてまっとうされたその生涯をただ讃えたい。しかし、それは彼を崇拝の祭壇に祭り上げるためではない。しばらく仕事の手を休めて、いくつかの作品を味わうように口ずさみながら、彼が紡ぎ出した自在で多彩で無辺の言葉の宇宙のなかでしばらく時を過ごしたい
 手元には文庫版の谷川俊太郎詩集が二冊ある。ハルキ文庫版(角川春樹事務所、1998年)と岩波文庫の『自選 谷川俊太郎詩集』(2013年)である。
 両者に収められている作品のひとつ「帰郷」をここに書き写す。『谷川俊太郎詩集・続』(1979年)所収だが、1950年代の初期作品のひとつだと思われる。

私が生まれた時
私の重さだけ地が泣いた
私は少量の天と地でつくられた
別に息をふきかけないでもよかった
天も地も生きていたから

私が生まれた時
庭の栗の木が一寸ふり向いた
私は一瞬泣きやんだ
別に天使が木をゆすぶった訳でもない
私と木とは兄弟だったのだから

私が生まれた時
世界(コスモス)は忙しい中を微笑んだ
私は直ちに幸せを知った
別に人に愛されたからでもない
私は只世界(コスモス)の中に生きるすばらしさに気づいたのだ

やがて死が私を古い秩序にくり入れる
それが帰ることなのだ……

 

括弧内の「コスモス」はテキストでは「世界」に振られたルビなのだが、このブログにはルビをそのまま再現できないので、上掲ように後置した。「一寸」にも「ちょっと」とルビが振られているが、こちらはなくてもそう読めるだろうから省略した。