内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(三十)

2014-05-14 00:00:00 | 哲学

2. 3. 3 諸観念がそこにおいて現実化される奥行(1)

 メルロ=ポンティは、「〈肉〉と観念との繋がり」という表現を用いつつ観念の生成を問題とするとき、観念を〈肉〉の奥行と見なしている。そこで問題にされるのは、「他のすべての経験がそれとの関係で位置づけられるような水準の確立」(VI, p. 195)である。

観念とは、この水準のことであり、[…]他の物の後ろに隠れた物のような事実上見えないものでもなく、見るものとは何の関係もないような絶対的に見えないものでもなく、この世界の見えないもの、この世界に住まい、それを支え、それを見えるものとしているもの、その内的な固有の可能性、この存在者の〈存在〉なのである。
« L’idée est ce niveau, […] non pas un invisible de fait, comme un objet caché derrière un autre, et non pas un invisible absolu, qui n’aurait rien à faire avec le visible, mais l’invisible de ce monde, celui qui l’habite, le soutient et le rend visible, sa possibilité intérieure et propre, l’Être de cet étant » (ibid.).

 観念は、「感覚されうるものの反対物」ではない。観念は、感覚されうるものの「裏地であり奥行である」(ibid., p. 195)。メルロ=ポンティが「奥行は、同時性の優れた意味における次元である」(« la profondeur est la dimension par excellence du simultané », ibid., p. 272)と主張するとき、それは、単に、事実上見られたものらの同時性、あるいは、或る同じ一つの物の現に見られている面と隠されている面との同時性だけを問題にしているのではなく、それらの同時性とともに、〈見えるもの〉と〈見えないもの〉との同時性、個物と一般者との同時性、知覚世界における個物と観念との同時性をも問題にしているのである。
 それらの間の知覚における共存 ― それらの間の「奥行のうちの同一性(動的同一性)」(ibid., p. 262)― は、いかにして現実化されているのか。知覚の領野においては、同一性は恒常的に生成過程にある。知覚の領野でこそ、「客体でも主体でもなく、本質でも実存でもない〈存在〉の最初の表現」(« première expression de l’être qui n’est ni l’être-objet ni l’être-sujet, ni essence ni existence », ibid., p. 228)が現成する。この原初的な表現が本質性や個別性についての問いに答えをもたらしてくれる(voir ibid.)。この私たちに最初に与えられる表現に対して、私たちは、個物における本質の受肉をもたらすものは何かという問いを投げかけることができる。この表現を出発点として、言語活動を通じて、或ものがそれであるところのものを、たとえそれを完全に汲み尽くすことはできないにしても、何らかの仕方で知ることができるのであり、此処あるいは彼処に在るものの性格を引き出すことができるのである。一つの観念をそれとして捉えること、しかし、感覚されうるものから不可分なものとしてそれを捉えること、それは、どこで、どのようにして、為されるのか、メルロ=ポンティは、このように世界了解のための根本的な問いの一つを問うているのだ。