内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(二十二)

2014-05-06 00:00:00 | 哲学

2. 2. 5 〈相互帰属性 inter-appartenance〉(1)

 〈肉〉の相互帰属性は、まずもって、見えるものと見るもの、触れられるものと触れるものとの間の関係である。見えるものと見るものとの関係は、相互に外在的な部分同士の関係ではない。見るものが見えるものに帰属するというのは、世界を見るものである私の身体がその見られた世界の一部として世界に含まれているということである。見えるものが見るものに属するということは、見るものである私の身体を含む世界が、私の身体に対して現われ、開かれるということである。見えるものと見るものとのこの相互的な帰属性は同時的である。

見られた世界は、私の身体の「中」に在るのではない。私の身体は、見える世界の「中」に最終的に在るのではない。
« Le monde vu n’est pas « dans » mon corps, et mon corps n’est pas « dans » le monde visible à titre ultime » (VI, p. 182).

 世界と私の身体とが有つ関係は、主体が己に対して構成する二つの表象の間の関係でもなく、主体とそれがその中で行動する空間との間にある関係でもない。世界と私の身体とは同じ「生地」から成っているのであり、この「生地」が〈肉〉なのである。世界は、それゆえ、〈肉〉を取り巻くものではもなく、〈肉〉に取り巻かれるものでもない。世界と私の身体との関係を、世界から私の身体へという方向で見れば、それは、「ある一つの[限定された]肉に適用された〈肉〉」(ibid.)であり、〈肉〉は、私の身体という世界内のある処に一つの刻印を押したということである。逆方向、つまり、私の身体から世界へという方向で見れば、それは、「〈肉〉に応える〈肉〉」(ibid., p. 262)であり、〈肉〉からなる私の身体は、己の周りにある仕方で世界が組織される世界の表現点に成る。

見えるものへの参加・帰属である視覚は、見えるものを包み込むのでもなく、見えるものによって最終的に包み込まれてしまうのでもない。
« Participation et apparentement au visible, la vision ne l’enveloppe ni n’en est enveloppée définitivement » (ibid., p. 182).

 私の身体は、視覚を担う見えるものである。視覚は、それゆえ、見えるものの内部で成り立ち、したがって、見えるものを汲み尽くすことはできない。見えるものは、視覚の領野をはみ出しており、多かれ少なかれ視覚の射程を逃れる。しかしながら、視覚は、実際に見られた見えるものに還元されつくすことはけっしてない。

見えるものの表面膜は、私の視覚と私の身体にとってしか存在しない。しかし、この表面の下の奥行は、私の身体と、それゆえ私の視覚を含んでいる。
« La pellicule superficielle du visible n’est que pour ma vision et pour mon corps. Mais la profondeur sous cette surface contient mon corps et contient donc ma vision » (ibid.).