内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(二十七)

2014-05-11 00:00:00 | 哲学

2. 3. 1 予備的考察(4)

 私が一個の立方体を見ているとき、それを構成している諸面は、直後に正面から見られるであろう正方形としてすでに私の眼差しによって捉えられていたり、すでに見られた正面としてなおも捉えられていたりする。それゆえに、私がその立方体を見ながらその周りを回るとき、その立方体の諸様相を同じ一つの立方体のそれらとして結び合わせる組織化は、その立方体において、各瞬間に、自ずと実現されるのであり、初期条件としてまず与えられた個々の感覚的所与に対する知的総合作用による構成過程などといったものがその知覚像の組織化に介入する余地はない。
 過ぎゆく各瞬間に実現されている、過去にも未来にも開かれたこの組織化を、メルロ=ポンティは、フッサールに倣って、「移行的総合」(« synthèse de transition », ibid., p. 307)と呼ぶ。この総合作用を超越論的主観による構成作用の結果と見なすことはできない。なぜなら、私がある距離を置いて見ている対象が在るまさにその場所においてこの組織化が自ずと実現されるのを、その実現のためにその対象を見ながら、私は待たなければならないからである。
 メルロ=ポンティが、一方で、立方体の知覚様態について、最初に与えられた曖昧な形姿を出発点とする場合、「組織化が実現するのを、ときに待つことを余儀なくされる」と言い、しかし、他方で、「私が立方体を組織する」と言うとき、矛盾に陥っているのでも、それぞれ二つの異なった事柄を問題にしているのでもない(ibid., p. 305)。それらはいずれも同じ一つの経験の記述なのである。この私が知覚するのだとしても、「知覚されたものの意味は、[…]そのもののうちで成り立つものとして私に現れるのであって、私によって構成されたものとしてではない」(ibid.)。
 以上述べられてきたことは、次のことを示している。知覚の領野は、「二つの次元 ― 〈ここ-あそこ〉という次元と〈過去-現在-未来〉という次元 ― にしたがって広がっている」(ibid., p. 307)ということである。メルロ=ポンティは、この知覚の領野を、ここでもまたフッサールに用語を借りながら、「現前の領野」(« champ de présence »)と呼ぶ。この領野が、取りも直さず、「移行的総合」あるいは「受動的総合」(« synthèse passive », ibid., p. 479)が実現される場所なのである。そこで実現されているのは、継起的に知覚される諸様相の段階的な自己組織化であり、その記述の中に、主客二者択一的な二元論的概念装置を持ち込むことは、事柄そのものを歪曲することにしかならないゆえ、許されない。
 知覚が私たちに与える「現前の領野」において見出されるのは、どのような関係なのか。それは、受動性と能動性との可逆的な関係である。この「現前の領野」につねに現在しているものは、私の生ける身体 ―「私は…することができる」のシステム ― であるところの知覚主体である。一言にして言えば、私である。私の知覚の領野は私なしにはそれとして現前し得ないのだから、その意味では、私が己の知覚の領野を把握している知覚主体だと言うことができる。しかしながら、その領野が自ずから組織されるのを待たなければならないかぎり、私は、この領野によって捉えられ、それに内属している一要素に過ぎないと言わなくてはならない。この両義的な能動・受動の関係は、西田の言葉を使うならば、知覚世界の現実的な構成の基層を成す行為的直観の世界に属するこの私たちの働く身体によって、「行為的に物を見て行く所に、我々の生命がある」(全集第八巻七二頁)という原事実から発生しているのだと言い換えることができる。奥行知覚が特に注目すべき経験であるのは、それが知覚するものと知覚世界との間の「ある断ちがたい繋がり」(« un certain lien indissoluble »)であるこの両義的な能動・受動関係を紛れもなく顕にしているからである(voir VI, p. 296)。