内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(三十三)

2014-05-17 00:00:00 | 哲学

2. 3. 4 存在がそこにおいて己を隠蔽しつつ己を顕にする奥行

 『見えるものと見えないもの』の中の「奥行」と題された1959年11月のノート(VI, p. 272-273)に立ち戻ろう。そのノートの中には、まだもう一つ検討すべき命題が残されている。

それ[=奥行]がなかったとすれば、世界も〈存在〉もないことになってしまうであろう。
« Sans elle [= la profondeur], il n’y aurait pas un monde ou de l’Être » (VI, p. 272).

 もし〈そこ〉に奥行がなかったとすれば、「隠されたものの次元」は不可能になってしまう。もしこの次元がなかったとすれば、見えるものも、見えるものに属する見るものも存在しないであろう。隠されたものと顕にされたものとの同時性が失われれば、知覚の領野の根本構造が完全に破壊されてしまう。そうすれば、必然的に、時間性もまた消失する。なぜなら、知覚の領野は、「〈過去-現在-未来〉という次元にしたがって広がっており、すべての時間性の起源だからである。その結果、不可避的に、私も他者も諸事物もそれとして存在しなくなってしまう。一言で言えば、知覚世界をまさにそれとして成り立たせているものすべてがすっかり失われてしまうだろう、ということである。
 奥行は、優れた意味において隠されたものの次元である。このテーゼを前提としつつ、メルロ=ポンティが「奥行がなければ存在もない」と言うとき、それは、存在は、何ら欠けるところのない十全なる現前ではない、完全に顕現することは決してない、ということを言おうとしている。存在は、奥行のおかげで己を顕示しながら、奥行のうちにつねに己を隠す。奥行は、存在を最終的な全体化からつねに逃れさせる。
 とはいえ、存在は、「まだ存在していない」あるいは「もはや存在していない」という存在様式を内に含んでいると言うだけでは充分ではない。というのも、奥行は、存在に存在の「彼方」あるいは存在の「外部」を与えることによって、顕にされることもある対象を隠すものであるというだけではなく、存在の内部に不在・非在・否定性を生じさせるものである。しかも、これらは、存在にとって偶有的・否定的な様式ではなく、存在が存在であるために不可欠な属性なのである。絶対的に十全で肯定的な「自己同一的〈存在〉それ自体」など在り得ないのだ。〈存在〉はその〈否定〉を内に含んでいるのだ。
 ここで、私たちが第一章第二章とで詳細に検討した、西田の論文「デカルト哲學について」の中の「真実在」の定義のうちの一つを思い出そう。「真にそれ自身によってあるものは、自己自身において他を含むもの、自己否定を含むものでなければならない」(全集第十巻一二〇頁)。メルロ=ポンティの〈存在〉についてのテキストと西田の〈真実在〉についてのテキストとの間の共鳴は、もはや疑いを入れないであろう。しかし、それは単に両者が表現において似たところがあるという表層的な類似が両者には見られるということに尽きるのではない。両者の間には、互いに他方に向かって問いかけることによって双方の哲学的問いがより深められるという、いわば相互作用的な深層の親和性が認められるのである。
 奥行は、それなしには知覚世界が完全に崩壊してしまう、知覚世界の根本的な次元である。したがって、存在が奥行のうちに己を顕にするということは、存在が知覚の領野として己を顕にするということである。存在が奥行のうちに己を隠すのは、存在が知覚可能なものの彼方に在るということではなく、常に顕にされることを待っているものを包蔵した無尽蔵の知覚世界の中で己を顕にするということである。〈存在〉は〈可視性〉であるということは、それが単に見えるものでも見えないものでもなく、見えないものに「裏打ちされた」見えるものの構成形態だという意味においてである。〈存在〉は、絶対的な肯定性でも絶対的な否定性でもない。ここでまた私たちが提案する概念を導入すれば、〈存在〉は、見えるものを無限に受け入れ続けることができる〈受容可能性〉なのである。それゆえにこそ、それは見られうるのであり、見られるという受動性を、「知覚されること」(VI, p. 304)をその内に含んでいるのである。

知覚的次元での否定や変形、これら外在的な名称として考えるよう学んできた諸可能性を、今や私は〈存在〉のうちに統合しなければならない。〈存在〉は、それゆえ、奥行のうちに階梯づけられ、己を顕にすると同時に己を隠す、深淵であって、充溢ではない。
« Les négations, les déformations perspectives, les possibilités que j’avais appris à considérer comme des dénominations extrinsèques, il me faut maintenant les réintégrer à l’Être, qui donc est échelonné en profondeur, se cache en même temps qu’il se dévoile, est abîme et non plénitude » (ibid., p. 108).

 〈肉〉は、物質でもその表象でもない。物質という概念もその表象という概念も、見えるものの内部に見るものが生まれるという生誕の神秘が起こる知覚世界における存在の現われを記述するのに役に立たないばかりか、却ってそれを妨げてしまう。なぜなら、それらの概念は、私たちを知覚世界のロゴスに対して盲目にしてしまうからだ。〈肉〉は、実体でもない。〈肉〉は、存在論を基礎づけるような、それ自体につねに同一的な実体ではないのだ。〈肉〉は、主体ても客体でもなく、それらを孕み、それらに生を与える〈場所〉なのである。〈肉〉は、「見られた〈存在〉」であり、「一つの〈存在〉は、単なる肯定性、即自、思考によって措定された〈存在〉ではなく、〈自己〉の顕現であり、覆いを取ることであり、成りつつあるところのもの … である」(« un Être qui n’est pas positivité simple, En soi, et pas l’Être posé d’une pensée, mais manifestation de Soi, dévoilement, en train de se faire … », ibid., p. 125)。存在は、知覚世界において、奥行のうちに、己を隠しつつ己を顕にする。
 メルロ=ポンティの〈肉〉の存在論によって表現を与えられようとしていたのは、西田が言うところの「自己の中に自己を映す無限の過程」(全集第十巻一二二頁)にほかならない。