2. 4 〈肉〉における自己身体固有の存在性格
私たちは、この節で、『見えるものと見えないもの』の中の「〈肉〉―〈精神〉」と題された一九六〇年六月の研究ノート(VI, p. 312-314)にコメントを加えることによって、〈肉〉に対する自己身体固有の存在性格を浮き彫りにすることを試みる。このノートの主題は、冒頭の一言 ―「精神を身体の「裏側」として定義すること」― に凝縮されている。
2. 4. 1 見えるもののうちに生まれた見るもの
奥行がその根本的次元である知覚の領野には、見るものの眼差しがなくてはならない。〈肉〉が奥行を有っているのは、見るものが居るからである。しかし、これまで見てきたところが明らかなように、それは、見るものが奥行を措定するということではない。奥行は、見るものにとってだけ意味を有つようないわゆる主観的なものではない。眼差しの力によって、私の身体は、〈肉〉に帰属する〈見るもの-見えるもの〉として、〈肉〉がそれ自身のうちにおいて見えるものの様々な形へと分節化され、組織化されるようにする。見えるものであるかぎり、それらの形は見えないものによって裏打ちされていなくてはならない。すでに見たように、見えないものの範疇に属する観念や本質は、奥行に住まう。知覚世界に見るものの眼差しがあるということは、見える世界が所有する見えないものとして観念や本質があるということを意味している。
どこに、どのようにして、見ることを担う見るものは生れるのか。見るものは、見えるものの中で見えるものに取り巻かれて生れる。見るものは、したがって、見えるものに対して優位性を有つこともなく、見えるものから独立することもない。見えるものと見るものとの関係は、本源的には等質な要素同士の間の関係であり、それをメルロ=ポンティは「可逆性」と呼ぶ。
見るものは、見えるものから到来し、見えるものを享受し、それを映す。このような見るものは、それでは、どのような構造を有っているのか。見えるものの一つである自己身体を有つことで、見るものは己自身を見る。己自身を見ることによって、その見えるものである自己身体は、「距離を置いて」現れる。見えるものとしての身体は奥行のうちに置かれ、したがって、見るものである自己身体は、己の見えないもの次元を所有していることになる。つまり、見るものは、見えるものの世界に生まれ、自己身体を所有することで、見えないもの一般だけでなく、自己自身に固有な見えないものも世界に与えるのである。見るものは、己自身の奥行、己に固有の見えないものの次元を有っているのである。