2. 2. 2 〈事実性 facticité〉
〈肉〉は、「事実からなるのでもなく、事実の総体でもなく、〈場所〉と〈今〉とに固く結ばれている」(VI, p. 184)。それだけではない。「〈どこ〉と〈いつ〉を創始するものであり、事実を可能にし、それを要求するものである」(ibid.)。〈肉〉は、「事実が事実であるようにするもの」であり、それと同時に、諸事実が意味を有つようにするものであり、「細分化された諸事実が「あるもの」の周りに配置されるようにするもの」である(ibid.)。〈肉〉は、それ自体には意味のない諸事物自体の連鎖ではなく、一定の意味を予め規定された客観的諸実体からなるシステムでもない。それは、感覚的諸事物がそれとして形成され、ある意味を有つことができるような地平を成す現実的な「エレメント」であり、知覚の領野を現実的に形成するところのものである。
このように規定されうる〈肉〉の〈事実性〉は、メルロ=ポンティの〈肉〉の存在論が、事実が事実としてそこから立ち現れて来る世界の「素地」へと、いわば下降的にその探究を深めていくことで見出した存在論的地平の本性の一つである。そこに、私たちは、メルロ=ポンティの哲学的思考と西田のそれとの接点を見る。その接点は、論文「自覚について」の次の一節に見られるような、「世界の根元」から形の形自身の自己限定として世界を見る「事から事へ」の哲学に見出すことができると私たちは考える。
矛盾的自己同一的に形が形自身を限定すると云ふことは、一つの形が限定せられたと云ふこと、その事が次の形を限定することであるのである。故に作られたものから作るものへと云ふ。それは一から多へでもない、多から一へでもない、何らの基体もない、事から事へである。故に限定するものなき限定、無の限定とも考へられるのである。併しそれは唯何もないと云ふことではない、無から有へとか、偶然とか云ふことではない。一々の動きが、一歩一歩が世界の根元からと云ふことである。絶対否定を媒介として一歩一歩が創造的と云ふことである。いつも絶対に接することのできない根元に接して居ると云ふことである。機械的に、多から一へと考へられる時、世界は永遠に過去から未来へである。目的的に、一から多へと考へられる時、世界は永遠に未来から過去へである。多と一との矛盾的自己同一的に、形が形自身を限定する世界は、その何れでもない。いつも現在が現在自身を限定する、絶対現在の自己限定の世界である。一歩一歩が根元に接する創造的世界である(全集第九巻五〇二頁)。
両者が同じ思想を語っていると言いたいのではもちろんない。両者のテーゼにある共通点が見出されるということが言いたいのでもない。私たちがこの二つの哲学的思考の接点に身を置くときに立ち会うことになる「光景」を、譬えを用いて表現するとすれば、次のようになるだろうか。哲学の宇宙に耀く二つのそれぞれに独立した巨大な思考の天体が接近し、ある点において接し、その接触によって発生した知性の眩いばかりの白光が、私たちの日々生きる世界が創造される瞬間の光景を照らし出している。