内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(四十一)

2014-05-25 00:00:00 | 哲学

2. 5 〈肉〉のロゴスと語る身体(3)

 昨日の記事の最後に引用した一節をもう一度掲げる。

問いかけとしての哲学は、[…]無ではない存在の零から世界がいかに分節化されるのかを示すこと、つまり、対自の中でも即自の中でもなく、存在の辺りに、世界への無数の入り口が交錯する繋ぎ目に居を構えること、そのこと以外ではありえない。
« La philosophie comme interrogation […] ne peut consister qu’à montrer comment le monde s’articule à partir d’un zéro d’être qui n’est pas néant, c’est-à-dire à s’installer sur le bord de l’être, ni dans le pour Soi, ni dans l’en Soi, à la jointure, là où se croisent les multiples entrées du monde » (ibid., p. 314).

 この存在の零は、無ではない。この繋ぎ目は、私の身体、より一般的に言えば、自己身体に他ならない。私たちが自己身体を与えられ、世界に属し、世界に曝され、世界が沈黙のうちに言わんとするところに耳を傾け、それを表現することができるかぎり、私たちが真に生まれ、働き、そして死んでいくこの歴史的世界に現在するものとして、世界が沈黙のうちに言わんとするところを言うことに私たちは努めなければならない。
 私たちの見るという経験は、世界の存在への知覚的信なしにはあり得ない。見るものは、見えるもののうちに生まれ、この知覚的信なしには生きることができない。この知覚的信は、一方では、私たちが世界に内属することを意味しており、他方では、見えないものへの信が私たちの生命にとって本源的なものであることを意味している。見るものは、見えるものの中の一つとしてその中に己を見出すが、それと同時に、見えるものを通じて見えないものへと開かれている。したがって、見えるものへの信と見えないものへの信とは二者択一的ではなく、私たちの生命において不可分である、と言うだけでは、まだ十分にそれら二つの信の関係を言い表したことにはならない。なぜなら、この二つの信は、見るという同じ一つの経験のニ側面だからである。
 見えないものへ信は、懐疑の拒否ではありえない。むしろその逆である。「それが疑いの可能性である」(ibid., p. 139-140)からこそ、知覚的信は信なのである。この信は、私たちのうちに目覚め、世界が私たちに向かって世界の沈黙の声を聞くように、そして世界がその内部に沈黙のうちに残したままの問いかけを自ら引き受けるように絶えず求めているという原初的な事実に私たちを気づかせる。したがって、メルロ=ポンティが『知覚の現象学』の中で次のように言うとき、それは文字通りに受け取られなくてはならない。「感覚とは、文字通り、一つの聖体拝領である」(« la sensation est à la lettre une communion », PP, p. 246)。私たちは、このテーゼと共鳴するテーゼを 、死の二月前に記された、『見えるものと見えないもの』の最後のノート中に見出すことができる。

見えるものを、人間を通じて実現される何ものかとして記述しなくてはならない。しかし、その何ものかは少しも人間学的なものではない[…]。〈自然〉は、人間の裏側として記述しなくてはならない(〈肉〉として — 「物質」としてではまったくなく)。ロゴスもまた、人間の中で実現するものとして、しかし、その「所有物」としてではまったくなく。
« Il faut décrire le visible comme quelque chose qui se réalise à travers l’homme, mais qui n’est nullement anthropologie […] la Nature comme l’autre côté de l’homme (comme chair — nullement comme « matière », le Logos aussi comme se réalisant dans l’homme, mais nullement comme sa propriété » (VI, p. 328).