内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

心身景一如 ― 日本の詩歌における「世界内面空間」の形成

2015-02-09 05:16:00 | 哲学

 来月11日から13日にかけてCEEJAとストラスブール大学で開催される国際シンポジウム「「間(ま)と間(あいだ)」日本の文化・思想の可能性」に発表者として参加する。
 発表要旨は、昨年十二月十五日の締め切り前に主催責任者に送ってあるのだが、発表原稿はまだ一行も書いていない。いつものことである。しかし、三月二日が原稿締切りであり、しかも日仏両語での提出が求められている。それだけではない。恐ろしいことに、今更のように気がついたのだが、今月は二月である。つまり二十八日までしかない。ということは、締切りまで残り三週間しかない。この厳然たる事実の前に衝撃を受けているというのは嘘であるが、またしても追い詰められたような気持ちで原稿を書かなくてはならないことに、いささかうんざりしている。すべて自己責任(私はこの言葉が大嫌いである)なのだが、目の前の差し迫った義務から目を逸らしたいのが人情というものである(そんなことは誰も言っていない)。しかし、昨年九月に参加打診があったとき即座に進んで参加を希望したのであるから、何が何でも締切りには間に合わせないと。幸いなことに、二月最終週には一週間の冬休みがある。そこに勝負を掛ける(大げさなんですよね、いつも)。
 というわけで、今日からこのブログの記事は、その原稿の覚書となる。日仏両語で原稿を書かなければならないときは、仏語で先ず書くことを原則としているが、今回はブログで日本語草稿をこつこつと書き継ぎつつ、その影で(別に疚しいことをしているわけではないのだが)仏語版を作成することにする。
 発表のタイトルは、今日の記事に掲げたとおりである。肝心な中身の方であるが、シンポジウムのテーマに沿った発表内容であるかのように見せかけておいて(別に人を欺くつもりはないのだが)、問題としては哲学的にはかなり大きな主題を背景としており、かつ方法的には新しいアプローチを試みるという、野心的なものになるだろう(って自分で言っているだけです)。
 以下が発表要旨である。

   一日物云はず蝶の影さす 尾崎放哉

 詩人は、小さな部屋の中に独り座っている。その部屋は、詩人が寺男として働いている寺院の中にある。部屋の障子は閉めきってある。その部屋に終日黙していると、ある瞬間、障子に一匹の蝶の影が映る。そして、次の瞬間には、消える。無為に過ごした一日の終りに訪れたこの光景の中で、障子は、室内と外界とを分かったまま、その両者を一つに結ぶ媒介に変容する。かくして、蝶は、詩人の内面空間を横切ったのである。そこにはもはや「身体を限界としたいかなる断絶もなく」、蝶と詩人とは一つの〈間〉において結ばれる。その〈間〉には、「純粋でとても深い意識の唯一点」があるのみである(リルケ)。
 リルケにおいてきわめて重要な概念である「世界内面空間」(Weltinnenraum)の好適な例と思われる放哉の句についての上述の評釈を出発点として、私たちは、日本の詩歌において、〈心〉と〈身〉と〈景〉とがいかにひとつの〈間〉を形成しているかを問う。