内的自己対話-川の畔のささめごと

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淋雨攷 ―「心身景一如」論のための覚書(二)

2015-02-22 12:34:01 | 哲学

 〈心〉〈身〉〈景〉の三つの構造契機からなる生きられた文学的空間を分析するにあたって、私たちは、日本の古典文学作品の中のいくつかの形容詞の使用例に注目する。
 そのための予備的考察として、時枝誠記の『国語学原論』第二篇各論第三章文法論において「詞の綜合的表現性」に言及されている箇所を簡単に検討しておくことにする(引用は、岩波文庫版『国語学原論』上・下巻に拠る)。
 時枝は、主に鈴木朖に依拠しながら、「詞と辞とは語の性質上本質的に相違するもの」(上巻320頁)という、時枝文法にとって根本的な区別を立て、前者が客体的事実或いは客体化された事実を表現し、後者が主体的事実の直接的表現であるとした上で、現実の言語表現の中には、両方の表現価値を有った語、あるいは両価値の転換が見られる使用例の存在を認める。
 その具体例の一つが、形容詞「淋しい」である。「雨は淋しい」という一文は、一方で「主観的感情の概念的表現として(必ずしも言語の主体的感情に限らない)」、他方で「雨の属性の概念的表現として」機能する(同巻322頁)。「雨を機縁とする処の主観的な「淋しい」という感情は、同時に雨の属性がこれに対応しているのであって、一般には「淋しい」という語は、同時に主観的感情とこれに対応する客観的属性とを綜合的に表現している」(同巻322-323頁)。
 時枝は、一旦は主客二元論の観点に立って日本語を分析してみせるが、それは、主客が本来的には対立する相容れない二項ではなく、互いに他方を内包しうる相互内属性を有っていることを明らかにするためであり、さらには、主・客の相互差異化がそこでこそ可能になる「いわば主客の融合した世界」(同巻61頁)であるところの「場面」を言語の存在条件の一つとして析出するためである。
 しかし、ここで一言だけ、時枝理論に対して批判的言辞を弄するとすれば、言語過程説では、もう一つの言語の存在条件としての主体に過剰な価値と機能性が与えられていると私は考える。特に総論においてそれが著しい。
 私は、時枝が「場面」として提示しようとするものを、私自身にとって根本的な哲学的概念である「根源的受容可能性」(passibilité fondamentale et originaire)として捉え、そこでの分節化・差異化機能の一つの現実態として主体を捉えることで、主体への過剰な価値付与を批判的に克服できると考えているが、このきわめて重要な問題は、本論考の枠組みを大きく超え出てしまう問題なので、一言それに言及するに留める。
 例文「雨は淋しい」に戻ろう。時枝は、同じく第二篇第三章文法論第四節の「文の成立条件」の中でも、類似した例文「秋の雨は淋しい」を提示し、この例文の「淋しい」という語には、「秋の雨の蕭条たる客観的有様と同時に、この文の表現主体の主観的感情を含めている。従って、「秋の雨」は主語とも考えられるが、猶「私」或は「彼」を主語として、「秋の雨」を対象語とする方がこの文の理解に適切である」と言う(下巻81頁)。
 引用中の「主語」とか「対象語」という術語の使用の仕方に対して私は批判的なのであるが、この問題も本論考の主題から外れるので、脇に置こう。その上で、ここで言われていることを、時枝が引用の直前で使っている別の術語を使って言い換えれば、「秋の雨は淋しい」という文は、「属性と情意との綜合的な表現」なのである。つまり、雨の属性を表現することが、取りも直さず、情意の表現なのである。
 今私は、単に「情意の表現」と言い、「主体の」あるいは「主観の」という限定をその上に冠さなかったが、それは、それを指示する要素はこの文には含まれていないという端的な理由による。こう言えば、すぐに、この文の実際の発話者がこの文の主体ではないのかとの反論が返ってくるかもしれない。それに対して、私は次のように答えるだろう。
 この文を一つの判断として主張する場合には、それを主張する者をその判断の主体と認めることには反対しない。しかし、この文は、それとはまったく違った表現でありうる。それは、発話者もまた、属性と情意の綜合的な表現の一構成要素に過ぎず、判断の主体としてこの文を言明したのではない場合である。
 具体的に一つの場面を例として挙げてみよう。ある秋の夕暮れ、薄暗い空からいつまでもしとしとと降り続ける雨を、部屋で独り、あるいは、海辺に佇んで、眺めているとしよう。そこで、ほとんど溜息を漏らすかのように、「秋の雨は淋しい」と思わず一言呟く。その時、この文は何を表現しているのか。
それは、秋の雨という「景」の眺めとして広がる淋しさのうちに置かれた「身」の「心」の表現なのである。その景として広がった淋しさが心なのであり、景として広がった心のうちに身があるのであって、その逆ではない。その時この一文が表現しているのは、それゆえ、風景を眺めている知覚主体である自己身体の内部で感じられた目に見えない感情などではないのだ。このような心身景一如の経験が与えられる時間的に限定された場所を、「存在」でも「世界」でも「空間」でもなく、「間」(ま)と呼ぶことにしよう。
 このような心身景一如の経験の「間」を表現している例は、文学作品の中に無数に見いだすことができるだろう。本論考では、日本の古典文学作品のいくつかの中からそのような例を取り上げ、それらにおいて用いられている形容詞の様態を分析し、それらが表現している経験の相を、存在了解・世界受容・空間分節という三重の問題場面において考察する。