内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

風問答

2015-02-15 18:24:43 | 随想

 今日も一日、「風」について考え続けた。
 風は何処に吹くのか。これが今日の問題である。と言えば、たちどころに、「あんた、よっぽど暇なんやなあ、そんなこと考えて何になります? そりゃあ、あんた、風ならどこでも吹きますがな、外ばかりじゃのうて、家の中でも隙間風っていうのが吹きまっせ、おお寒っ」と、もう呆れてものも言えんという顔で応じてくれるお節介な関西人(なぜここで関西人が登場するのか、私にもわからないが、気分的にそうなのである)も世の中にはいるであろうが、そういう人たちはお呼びでない。
 風は何処に吹くのか。「そんなに気にしはるんなら、気象予報士のお姉ちゃんにでも聞かれたらどうです?」と、またしでもお節介な関西人はしつこく絡んでくるであろうが、それもお門違いである。これは、まさに哲学的な問いなのである。これを聞けば、さっきの人は言うであろう、「もう勝手にしなはれ」と。そうくれば、私がもし江戸っ子であれば、「上等でぃ、とっとと失せやがれ!」と応じたことであろう。因みに、私は東京生まれの東京育ちであるが、山の手育ちのお坊ちゃまであるから、下町言葉は使わない(というか上手に使えない)。幼少の頃、私の母は、椅子に座って足をブラブラさせている行儀の悪い私を注意するのに「◯◯ちゃん、御御足(「おみあし」と読む)!」と宣われたそうで(注意された本人はもう覚えていないが)、それを脇で聞いていた幼い妹は、「ふーん、お兄ちゃんの足は「オミアシ」って言うんだぁ」としばらく思い込んでいたと昨年末に聞かされた。
 こんな落とし噺をするために今日の記事を書き始めたのではなかったのだが、つい筆(ではなくて、キーを叩く手)が滑って、思わぬ展開となってしまった。気を取り直して、なんとか立て直そう。
 風は何処に吹くのか。関西人曰「もう、ええっちゅうに!」(あれっ、まだいたんですか? もう無視する)。
 もちろんここで期待されている答えは、気象学的なものではないし、流体力学的なものでもない。なぜなら、この問は、人間存在の根本に関わる形而上学的な問いだからである(と大きく出れば、先の関西人でなくても引くであろうことは自覚している)。
 風は、何処にも吹く。しかし、何方より来たり、何方へと去るのか。風は、物を震わせ、樹々草花を揺らせ、水面を波立たせるが、己自身は姿を見せず、実体を有たない。風は、世界の事物の一部をなすのではなく、それらの「間」を自在に流れる。風は、物に満たされた世界につねに現前している目に見えない「開け」の「おとずれ」でなくて何であろう。風に触れて、私たちの心が、あるいは心地良く、あるいは冷たく、あるいは恐ろしく震えるのは、私たちが日常そこに生きている物に覆われた世界が、実は無限の「開け」において結ばれる仮象にしか過ぎないことを、そのとき直接感受するからこそではないのか。風は、全存在を無限に超え包む無窮の動性、太古の記憶、永劫の未来、永遠の現在のメッセンジャーとして、それらへの招待状として、「開け」から「開け」へと虚空を吹き抜け続けている。『正法眼蔵』「現成公案」には、「風性常住無処不周」とあり、この「風性」は「仏性」に他ならない。
 この「風」に気づき、その声に聴き従いつつ、それに呼応する詩的表現の精錬を目指す生活のあり方が「風雅」、その「風雅」に徹して、普段の生活の軛を断ち切り、不断の「旅」に出るのが「風狂」だと言えるのではないだろうか。蕉風確立の第一歩となる『野ざらし紀行』の第一句が「野ざらしを心に風のしむ身かな」であるのは、偶然ではないであろう(この句についての私見はこちらの記事を参照されたし)。