内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

文学は哲学である

2015-02-11 16:37:14 | 哲学

 日一日と情け容赦なく迫ってくる来月のシンポジウムであるが、そこで発表したいと思っていることを、最初は漠然とでもいいから、このブログの記事にしていこうと思う(つまり、本当に焦ってきたのである)。
 当日の発表では、日本の古典文学の中からいくつかの作品の一部を主張したいテーゼの例解として示しながら、話を進めていくことになるが、発表時間は三十分と長くはないので、テーゼそのものについてはあまり立ち入った話はできないだろうから、それをブログの記事として書き留めていこうと思う。そうしているうちにきっと発表内容の輪郭もはっきりしてくることであろう(というのは、願いにも似た希望的観測である)。それに、発表そのものには直接生かせなくても、この予備的な理論的考察がシンポジウム以後にどこかで役に立たないともかぎらないではないか(なんか無理している感じですが、かくして自分を鼓舞しているのである)。
 さて、その肝心なテーゼであるが、それを一言で言うと、今日の記事のタイトルに掲げたように、「文学は哲学である」という、かなり大胆な(と言えばまだ聞こえがいいかもしれないが)、むしろ甚だ乱暴な主張なのである。しかし、これをフランス語で、 « La littérature est une philosophie » と書くと、もう少し穏やかな主張になる。つまり、「文学も一つの哲学である」と言っていることになるからである。
 しかし、このテーゼによって私が主張しようとしているのは、「ある種の文学は、哲学的と見なせるような要素を含んでいる」というような穏健な意見ではない。「文学も、見方によっては、一つの哲学だ」という条件付きの命題でもない。両者の歴史的変遷を辿り直しつつ、両者の接点あるいは境界領域、さらには共通の起源を探し出そうという「考古学的」アプローチでもない。
 まず、文学と哲学とをすでに確立された二つのジャンルとして、つまり、それぞれの中にあれこれのテキストを分類できる既得のカテゴリーとして、扱うのをやめてみよう。そのようなカテゴリーとしての自明性を疑い、それを一旦括弧に入れ、目の前に置かれた「生の」テキストを、或る一つの哲学的関心から読んでみよう。そのとき、これまでいわゆる「文学作品」として考えられてきたテキストにおいてこそ可能な哲学的問題へのアプローチの仕方があり、その解決もそのテキストそのものにおいて「書くこと」そのこととして「実践」されている、ということが見えてくるのではないだろうか。
 とまあ、以上がおよそ主張したいことなのだが、今日はこの辺でやめておくことにする。今晩は、これから心身の栄養補給をして明日の思索に備えることにする。