昨日、参議院で二閣僚に対する問責決議が可決された。決議に拘束力はないとはいえ、田中直紀防衛大臣については決議を受け、辞任すべきであろう。どう見ても、見識・資質ともに防衛大臣の任に堪えないことは明らかだからである。
それにしても、日本の防衛大臣ほどその条件の適否の見極めが困難な閣僚職もないだろう。それほど、この職は複雑な性格を持つからである。
まず、防衛大臣は自衛隊に対する文民統制の要である。このことはよく知られているが、その具体的な意味はあまり究明されていない。
「文民」といっても、憲法9条で軍の保有を放棄している日本の自衛隊は軍ではないのだから、現行憲法下の日本には厳密な意味での「軍人」は一人も存在しない。制服組自衛官といえども、法的には「軍人」ではない。といって、かれらは「文民」でもない。
すると、「文民」とは何だろうか。まず、現職自衛官でないことは形式的条件である。だが、それだけでは足りない。自衛隊に対する民主的な統制を貫徹するには国会の関与が不可欠であり、中でも国会の中核である衆議院の議員から防衛大臣が任命されるべきである。
しかし、それだけでもまだ足りない。憲法9条と窮屈な同居を続ける国家武力たる自衛隊を憲法の平和主義の理念に沿って統制する能力を備えていることが、防衛大臣の実質的な条件となる。
この点、田中氏に対する野党の批判が専ら安全保障問題に関する知識の欠如に向けられていたのは間違いではないにせよ、不十分である。防衛大臣が安全保障問題に関する知識を欠いていれば、部下である制服組自衛官を適切に統制できないことはたしかであるが、大臣がただ単に安全保障問題のエキスパートであればよいというものでもない。
防衛大臣が安全保障問題に精通はしているが、制服組も顔負けなほどタカ派的で、かえって制服組を煽ってしまうような人物であれば、それは憲法9条の下での防衛大臣としてはやはり不適格である。
かといって、自衛隊そのものを憲法9条違反とみなす絶対的平和主義者では制服組との間に信頼関係を築くことができず、自衛隊の存在という現実の中で文民統制の役割を全うすることは難しい。
そうすると、防衛大臣にふさわしいのは、安全保障問題について十分な見識を備えつつ、憲法9条の下での自衛隊の役割に理解を持ち、憲法の理念に沿った統制能力を持つ衆議院議員ということになろう。
さて、そんな人物を見出すことはできるであろうか。