九 無について
復帰するということが道の動き方である。弱いということが道の効用である。
天下の万物は有より生じ、有は無より生ずる。
道が一を生じ、一が二を生じ、二が三を生じ、三が万物を生ずる。万物は陰を負って陽を抱き、(この二つを媒介する)沖気がこれを調和させているのである。
老子の中で最も刺激的な論議を提起してきた「無」の思想を展開する章であるが、老子が「無」について正面から語るのは、通行本で第四十章に当たる本章だけと言ってよい。一般的な解釈とは裏腹に、老子にとって「無」は必ずしも決定的なキーワードではない。
老子にとっての「無」とは、あくまでも道の存在論的な別言にすぎない。前章で序説的に語られていた真空という道の性質をひとことで「無」と表現するのである。従って、老子的な「無」とは「何も無い」ことではなく、老子的な真空の概念に従って「何かが在る」状態である。
そうした意味では、老子的「無」はゼロではない。従ってまた、しばしば虚無主義の系譜に位置づけられることも多い老子の思想は、西洋思想の文脈におけるニヒリズムとも異質である。老子の「無」は、むしろ日本の西田幾多郎が単なる有の対偶としての無=相対無とは区別して、相対的な有/無の対立を超える根拠として提起した「絶対無」に近いものと言えるだろう。
ただし、「絶対無」を心の本体として観念した西田の場合は唯心論的傾向が強いのに対し、無としての道を物質的に把握しようとする老子の場合は唯物論的傾向が強いという点は無視できない両者の差異である。
ちなみに、第三段は通行本では第四十二章の冒頭に現れる章句であるが、内容的には本章第二段の命題を受けて、それを陰陽思想によりつつ敷衍しようとしているところであるから、あえて本章末尾へ移置してみた。陰陽家ではなかった老子が陰陽思想に触れるのはここだけであるが、それは同時代の中国人にとっても晦渋であった自説を理解させるために、あえて同時代人にはよりなじみやすかった陰陽家的説明を試みたものであろう。
ただし、ここでも陰と陽の対立の手前にある一者=道を想定しつつ、沖気という媒介概念によって陰陽二元論を克服しようとするのは老子独自の考えであり、これは第一段冒頭で再び繰り返されている「復帰」の思想とも関わってくるところである。
なお、第一段第二文で弱さを道の効用としているのは、弱さという価値を積極的に肯定する老子倫理学の一端である。