第七章 古代「文明」と奴隷制
古代「文明」と奴隷制③:中国
従来、古代中国における最初の実在的な統一王朝とみなされてきた殷は、奴隷制に基盤を置く奴隷制社会と理解されてきたが、殷より遡ることが実証されつつある夏の時代の社会編成は不詳である。
殷における奴隷の主たる給源は対外戦争で確保した捕虜であり、かれらを労役や軍務に徴用していた点では他地域の古代国家と大差ないが、殷ではその濃厚な祭政一致体制における宗教儀礼で欠かせない生贄や王侯の殉葬にも奴隷を供した点に特徴があった。
その後、殷の奴隷制社会が後継の周王朝によって転換されたか、それとも春秋戦国時代まで継続されたかは歴史学的な論争点である。周王朝は一般に封建制社会と特徴付けられるが、これは王族を各地に封じたもので、西欧中世における奴隷制と区別された農奴制に基盤を置く領主制とは異なり、奴隷制とも両立し得る社会構制であったと言える。
春秋戦国の分裂を止揚して全国統一に成功した秦は厳罰主義的な法治国家で、とりわけ男性犯罪者への宮刑を多用した。宮刑受刑者は、時に家族もろとも奴隷身分に落とされた。秦は万里の長城や始皇帝陵に代表されるような大規模建築事業を好んだが、これらの建設作業には農民のほか、奴隷が徴用されたと見られる。
秦の時代には、後の奴婢制度の原型となる官奴と私属の区別が形成され、秦の政界実力者であった呂不韋などは私属奴隷を一万人も所有していたとされる。こうした社会編成は秦滅亡後の混乱を収拾して成立した漢王朝にも基本的に継承された。
ちなみに、前漢7代武帝に仕え、匈奴対策で活躍した将軍・衛青は生母が奴隷出身という低い身分の出で、下級官吏の養父に引き取られた後も奴隷の扱いを受けていたとされる。姉が入内し武帝の皇后となったことで出世の機会をつかんだが、姉弟ともどもこのような幸運は稀であった。
前漢末になると、豪商を含む上層階級が大量の私属奴隷を抱え込み、庶民の労働を奪う結果となったことから、12代哀帝は身分ごとに所有できる奴隷数の上限を定める規制策を導入した。
その後、前漢を打倒して新を建てた王莽は奴隷制廃止・奴隷売買禁止という画期的な政策を導入したが、社会主義的な農地国有化や統制経済などと共に、当時としては革命的に過ぎた王莽の策は失敗し、新は短命に終わった。
その後、後漢から三国時代、五胡十六国・南北朝時代をはさんで唐の成立に至る過程で、中国の奴隷制は律令体制の下、公式の奴隷制度たる奴婢制度として定在化していくのである。
なお、五胡十六国時代に後趙を建国した石勒は中国史上唯一の奴隷出自皇帝と紹介されることもあるが、本来は匈奴系羯族の一族長家の生まれで、飢饉を機に出奔流浪し、一時奴隷となったに過ぎない。