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持続可能的計画経済論(連載第5回)

2018-05-07 | 〆持続可能的計画経済論

第2章 ソ連式計画経済批判

(1)曖昧な始まり
 これまでのところ、歴史上本格的かつある程度持続的に実践された計画経済は、唯一ソ連式計画経済だけである。そのため、計画経済と言えば、特にことわりなくともソ連式計画経済を指すと言ってよい。それほど有名な経済政策ではあるが、実のところ、この政策は真に「計画経済」と呼ぶに値するか疑問のある出自を持つ。
 ソ連式計画経済は、そもそもその始まりが曖昧であった。ソ連式計画経済の指令機関である国家計画委員会(Gosplan:ゴスプラン)はロシア10月革命後の内戦・干渉戦が終結した直後、1921年2月に設立された。当然ながら、この時期、ソ連経済は戦乱によって破局的状態にあった。そうした戦後復興の切り札としてレーニン政権が打ち出したのが、いわゆる新経済政策(NEP:ネップ)であった。
 「新」と銘打たれているけれども、この政策は実際のところ、時限的に資本主義を復旧させて経済力の回復に充てるという趣旨であったから、共産主義を掲げる革命政権としてはあえて逆行的な施策を取り入れるレーニン流プラグマティズムの産物であった。
 とはいえ、全面的な市場経済化がなされたのではなく、市場化は手工業や農業分野を中心とし、外国貿易、重工業、通信・交通といった基幹分野は市場経済化から除外する混合経済政策ではあった。
 レーニンによれば、それは市場を野放しにするのではなく、国家が市場をコントロールする限りで、「国家資本主義」と呼ぶべき特殊な経済復興政策であった。
 そうした戦後混乱期に、一方で計画経済の主力となるゴスプランが設立されたのであった。しかし当初のゴスプランは諮問機関的なものにすぎず、ソ連の構成共和国ごとの経済計画の調整と連邦共通計画の作成という限定的な役割を持つにとどまったのである。
 そもそもレーニン政権が最初に打ち出した戦後復興計画はゴエルロ・プランと呼ばれた電化計画であり、その計画を担ったのは、ゴスプランではなく、ゴスプランよりも一年早く設立されたゴエルロ(Goelro)すなわちロシア国家電化委員会であった。レーニン政権は全土電化事業を戦後復興の土台とみなしており、当初はゴスプランもゴエルロの影に隠れていた。このゴエルロ・プランが後の五か年計画の原型になったとされている。
 こうした経緯を見ると、あたかも第二次世界大戦後の日本で、戦後復興を推進する指令機関として設立された経済安定本部を前身とし、2001年の行政機関統廃合まで存続した経済企画庁(経企庁)に類似している。
 資本主義を採る日本の経企庁は本格的な計画経済機関となることなく、最終的には統計・分析機関となり、その役割を終えたわけだが、ソ連の場合は国家資本主義の産物として発祥したゴスプランが国家計画機関として以後増強されていくという違いはある。しかし、ソ連式計画経済はこのように戦後復興の過程で、国家資本主義という特殊な経済政策の産物として始まったという歴史的な事実には十分留意される必要がある。

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