フルール・ダンテルディ

管理人の日常から萌えまで、風の吹くまま気の向くまま

『遠い伝言―message―』 12

2008年10月27日 | BL小説「遠い伝言―message―」
 エドは、寝室から出てきたテスの姿を知らず目で追った。
「……なんだ?」
 テスは振り向いて眉をひそめた。
「あ、い…いや、それ……似合うね」
「こどもの頃の服だ。王宮に入るのに平服というわけにはいかないからな。お前は仕度できたのか?」
「……うん。…ねえテス、俺も行かなきゃだめかい?」
 今日のために用意された服は、普段用に与えられた上等なものよりいっそう高価そうだった。ベストもいつもとは違い、前から見ると変わりないが、後ろがシャツと同じくらい長い。テスも色が違うだけで──エドは薄い青で、テスは若草色だった──同じ型のベストを着ていた。
「見学に行くと思えばいいだろう」
「でも……俺は本当は王宮に入れるような立場じゃないし……」
 立ってみろ、というテスの手振りでエドは立ち上がった。テスは彼の格好を点検すると、部屋に引き返した。
 戻ってきた彼が手にしていたのは、ブラシと水色の編ひもだった。
「そこに膝をついて」
 言われるままにすると、髪を結んでいたひもが解かれて、広がった髪が頬にかかった。
「テス?」
「動くな。こういうのは得意じゃないんだ」
 背後から髪をブラシで梳かれ、ひとまとめにされる。
「……立っていいぞ」
 エドは後ろに手をまわして結び目に触れてみた。
「靴ひもではあんまりだからな」
 この世界に来たとき髪を束ねていたゴムは、とうの昔に切れてしまっていたので、代わりに荷物の底にしまってあるスニーカーのひもで縛っていたのだ。
「テス……」
 たまたまあったひもを使ったのではないことはすぐわかった。ひもの色は水色で、彼の瞳の色──髪と同じで色素が薄いアイス・ブルーの瞳──に合わせて買ったものだろう。
「ありがとう……」
「たいしたものじゃない。お前は、いつもわたしが言わない限り自分のものは何も買おうとしないから、気になっていただけだ」
 素っ気なく答えるテスが愛しくて、エドの口から自然に微笑みがこぼれる。
「嬉しいよ。大切にする」
「…大袈裟だな、お前は」
 彼は仏頂面で椅子に腰かけた。間もなく王宮へ行く迎えが来ることになっていた。黙って待つテスは、押し隠してはいるが神経質になっているように見えた。
「失礼致します。お迎えが参りました」
 ノックの音に肩を揺らしたテスは、肘掛けを摑んで大きく息を吸うと、勢いよく立ち上がった。彼の後ろを支える気持ちで、エドも続く。テスは「一緒に来てほしい」とは言わなかったが──当然のように行く話の流れになっていたのだ──何も言わなくとも、「父と対面する勇気が持てるよう、見守っていてほしい」というテスの気持ちが、髪を直している間に伝わってきたからだった。
 外から中はほとんど見えない、天蓋つきの2頭立ての馬車で、彼らは王宮へ向かった。途中モスカーティ家でファビウスと、昨日再会を果たしたルキスが乗り込み、4人を乗せた馬車は王宮の正門ではなく、裏手の王族の住まいである後宮の、王族専用の門へとやって来た。ファビウスは許可証と自分の顔を衛兵に見せてそこを通過した。
 モスカーティの本宅の方がよほど広いだろうこじんまりした後宮は、ひっそりとして、淋しげな雰囲気すら漂っていた。それも無理はない──今ここに住むのは国王夫妻と第二王子だけで、しかも主である国王は病に臥せっているのだ。病床の王を憚って静寂を保っていることもあっただろうが、第一王子の失踪に続き国王の病という不幸が、宮全体を沈ませているのだろう。
「王妃様はお部屋でお休み中、レジオン殿下は政務中ですので、今ならば顔をあわすこともありません。今日は私が遠縁のものと陛下のお見舞いに訪れることになっておりますから、邪魔は入りません」
 ファビウスが先頭に立ち、ルキスとエドがテスをはさんで見えないようにして、彼らは廊下を急ぎ足で進んだ。
 植物を図案化した彫刻が美しい両開きの扉の前に立っていた兵士たちは、ファビウスの姿を見ると剣を掲げ敬礼した。ファビウスは軽く手を上げて答礼する。
 兵士がノックして扉を開けると、そこはソファとテーブル、小さな飾り戸棚がある小部屋になっており、側仕えの女官が1人詰めていた。濃い金髪をきっちり結い上げた彼女はファビウスに向かい一礼した。
「すまないが、陛下と大切なお話がある。席をはずしてほしい」
「かしこまりました」
 彼女は再度お辞儀をし、退室した。
「君たちはここで待つように」
 ファビウスは奥のドアをゆっくりと叩き、扉を静かに引いた。
「失礼いたします、陛下。ファビウス・モスカーティにございます」
「入れ」
 病人の声とは思えない、しっかりした深みのある声が響いた。扉の前に立つテスは、はっと顔を上げ、胸元を握りしめた。
「……殿下」
 テスは小さくうなずくと、明るい部屋の中へ足を踏み入れた。それに続けて入ったファビウスが振り返り、ドアを閉めた。
 間もなくファビウスだけが出てきて、黙って彼らとともにソファに座った。扉の向こうからは、かすかに人の話し声は聞こえてきたが、何を言っているか聞きとれるほどではなかった。ふたりはずいぶんと長い間話し込んでいた。
 やがて声が途切れると、扉が開いてテスが顔をのぞかせた。まだまつげの濡れた、泣き腫らした赤い目で。
「エド、来てくれ」
「え?お、俺?」
 突然のことに面食らう彼に、テスは硬い表情でうなずいた。
「お前に礼を言いたいそうだ」
「礼って…」
 また彼のことを説明するのに「命の恩人」を使ったのか、とエドは恥ずかしかった。他に一緒にいることを納得させられる説明をひねり出せないので仕方がないが、助けられた覚えはあっても助けた覚えのない彼としては、どうにも居心地が悪かった。
 寝室、というよりは執務室にベッドを持ち込んだような、衣装戸棚があり、円卓があり、大きな机や本棚がありというちぐはぐなインテリアは、おそらく倒れてからここで政務を行うために急遽持ち込まれたせいだろう。そしてその、中庭に面した窓を背景に、クッションに支えられて背を起こした、厳しい顔の初老の男性が、ベッドの上に座っていた。
 男は──国王は、じっとエドを見つめていた。エドも見つめ返した。言われなくとも、おそらく街中で会ったところでこの男がただ者ではないとわかるだろう、威厳と強い意志のオーラを発散させている。
(似てる……)
 面長で四角い顎や秀でた額、その下の鋭い褐色の目やがっしりした鼻、やや大きい口、どれをとってもテスと似たところはない。なのに似ていると感じたのは、その相手を射抜く冷徹な視線、厳しさと強烈な意志を感じさせる引き結ばれた唇は、初めて会ったときのテスとそっくりだった。
「……父上、こちらがエドワード・ジョハンセンです」
 心配げに、テスはちら、とエドを見上げる。
 エドはあまり緊張を感じなかった。こんなに「偉い人」に直接会うのは大学の学長以外には初めてだなどと、とりとめのないことを考えていた。
「初めまして、お会いできて光栄です」
「テリアスの父、クラウディウス・ローディアスです。事情はテリアスから聞きました。さぞ不安でいらしたことでしょう。ネルヴァ族の村へは必ずお送りしますので、ご安心ください。もし残念ながらすぐには国へ戻れないようでも、ローディア国内で暮らせるよう取り計らいましょう」
「……身に余るご厚意、深く感謝いたします、陛下」
 敬意をこめた言い回しがわからなかったので英語で答えると、テスがすばやく通訳した。王は頷いた。
「物怖じせず度胸がある。順応性もあり、教養もある。見所のある青年だ。可能ならばじっくり話をしてみたいものだが、引き止めるわけにもいきますまい。村まではテリアスを同行させますので、どうかこれをよろしくお願いいたします」
「いえ、私の方こそお世話をおかけします」
「父上……」
 テスが意外そうに王を見つめる。
「行きなさい。一族のことは彼らに聞くしかあるまい。だが…それで何も方法が見つからなかったとしても、必ず戻ってきなさい。お前は自分の価値を軽んじすぎる。お前がいなくとも将来のローディア王府に支障はないかもしれぬ。しかしそれが最善の体制だとは決して私も大臣たちも思ってはおらぬ。どうしても王子として、未来の王兄としての義務と責務を果たすことができないというにしても、大臣たちへの説明もせずにおくことは許されない。それはわかっているな」
「……はい」
 彼は唇を噛みしめた。
「もっとも、お前は王家の人間としての義務から逃げたいわけではなかろう。問題は、レジオンのことではないか?」
 目を上げたテスの顔から血の気が引いた。
「父上…っ」
 対照的に王は冷静そのものだった。
「公言するほど慶ばしいことではないが、母が違うのだから咎められる謂れもない。そう思って黙認していたが……」
「父上!その話は今はおやめください…!」
「この男の前では、か?」
 王の鋭いまなざしが自分に移ったのはわかっていたが、それよりもエドにはぼんやりとしていた疑問がはっきりしたことの方で頭がいっぱいだった。「レジオンを裏切った」とは、レジオンを愛していたつもりだったのに体の変化がそれを否定した、本当は愛していなかったのではないかと気づいたことだったのだ。テスは王の失望や自分の将来を悲観して国を出たのではない。ただレジオンに、その事実を知られたくなかったのだ。
「……この男の前だから、言うのだ。お前はこの男に惹かれている。だから、お前の口からは言えないことを言っておる」
 テスは必死にエドから顔をそむけていた。
「お前たちは恋に目がくらんで、自分自身も相手のことも見えなくなっていた。お互い、初めての恋愛で、レジオンも若すぎた。あれはお前を手に入れたと有頂天だったし、お前はあれの情熱に巻き込まれて冷静さを失っていた。お前たちは、互いの気持ちと考えをもっと話し合うべきだった。その上お前は自己卑下が過ぎた。結局お前はレジオンの愛情を失うことを恐れるあまり、打ち明けるよりも逃げることを選択した。違うか」
 口調には責める響きは全くなかったが、内容は厳しかった。
「いいえ……」
 テスはうなだれて答えた。
「おっしゃるとおり……わたしは彼の気持ちを…信じることができませんでした……」
「……テリアス」
 王の声音に、愛しさが混じった。
「私がそなたの母の愛情と信頼を得るのに、何年かかったと思う。一目惚れをして、いくら口説いても一顧だにされず、焦るあまり権力づくで連れてきてしまった。結局セイファと褥を共にするまでに、3年かかったのだぞ」
 テスは驚いて王を見た。
「お前を身ごもるまでにさらに1年。テリアス、真実の愛情は一瞬で生まれることもあれば、育んでいかねばならないこともある。一方の中にあってももう一方はこれから変わっていくところかもしれぬ。お前は結論を出すのが早すぎたのではないか。機が熟すのを待つことも時には必要だ。お前は、過去現在、そしてこれからのことも、レジオンに正直に話すべきだ。それに対するレジオンの答えを聞いてから、結論を出してはどうだ」
「……おっしゃることはよくわかります。しかし今は……自分がどうなるかわからない状態で、わたしは誰にも何も約束はできません…。レジオンとは、一族の村から戻ってから……」
「戻ってくるのか?」
 静かに、王は尋ねた。テスは答えられず、苦しげに王の視線を見返すだけだった。
「……お前を身ごもったセイファは、私に早く王妃を迎え、嫡子をもうけるよう強く勧めた。あれは、お前に一族の体質が受け継がれているのではとひどく恐れていた。だからお前には決して王位を継承させてくれるなと嘆願し続けた。理由は、わかるな」
「……はい……」
「王としては、お前に望むこと、許せること、許せぬことは多々ある。しかし父としては、お前は私の最愛の子だ。レジオンもかわいいが、生涯ただひとり愛した女の、その面差しも気質もそっくりな子であるお前をより愛しく、不憫にも思うていることは否定できぬ。だからこそ、お前をこの男と共に行かせる」
 テスの体が揺れた。
「……父上…っ」
「行き、選ぶがよい。父としてお前に一度だけ機会をやろう。戻るも戻らないも、王子として義務と責任に一生を捧げるも、臣籍降下し王家から離れるも、どの道を選ぼうと許す」
「父上……!」
 彼の目から涙があふれ、それを隠すように彼は膝をつき、ベッドに顔を突っ伏した。
「お許しください……っ」
 つと伸ばされた王の手が、テスの頭を撫でる。太くごつごつとしたその手は、その人生の平坦でない道程と、越えてきた数々の困難を物語っていた。テスを見つめる慈愛と悲哀のまなざしは、しかしエドに向けられたときには、嘘偽りを許さない、峻厳なものになっていた。
「エドワード殿」
 反射的に彼は背筋を伸ばした。
「はい」
「テリアス同様、あなたもこの旅で大きな決断を迫られることになる。それにあたり、私から1つだけ助言を差し上げたい」
 顔を上げてテスが不安そうに王を見る。
「あなたがこの世界にいらしたのは間違いでも偶然でもない。あなたは今この時、この世界に来なければならなかった。この世界で経験したこと、出会った人はすべてあなたにとって大きな意味がある。ここが単なる仮初めの地、仮初めの出会いとなるか、そうでないかは、あなた次第だ。それを決して忘れぬように」
 王の言葉はエドを動揺させた。父上、と小さく叫んだテスは、咎めるように王を睨んだ。
「彼を迷わせないでください……!」
「またお前の悪い癖だ。お前の選択は彼の選択となり、彼の選択はお前の選択となる。お前ひとりで決めてよいものではない。3年前と同じ過ちを繰り返すつもりか」
 王の叱責に、テスは目を伏せてシーツを握りしめた。
「…ネルヴァの族長宛に私からの親書を送る。その使いの一行にまぎれて行けるよう、ファビウスに手配させた。テリアス……立ちなさい」
「…はい」
 腹の上で重ねていた手を、王は開いた。
「行く前に、お前を抱きしめさせてはくれまいか」
「父上……」
 目を瞠ったテスは、すぐに苦笑まじりの大人びた微笑で口元を綻ばせた。
「わたしは結構重いですよ?」
「何を言う。お前などよりよほど私の方が鍛えてあるわ」
 それでも王の体を気遣って遠慮がちにベッドに腰かけたテスを、王は言葉通り筋肉の浮いた太い腕で膝の上に抱き上げた。
「お前をこうして腕に抱くのは20年ぶりくらいか。…レジオンが生まれてからは、マルティアに気兼ねしてどうしてもセイファとお前のもとを訪れるのが間遠くなってしまった。セイファが亡くなってからはお前を叔父上に預け、公式の場でしか会うことができず……お前には父として十分に接してやることができなかった。許せ」
「そのような……。母上もわたしも、事情は理解しておりました」
 だがその答えは余計に王の心を刺激したらしく、彼はこみあげた感情のままにテスをがば、と抱きしめた。
「……だからこそ、お前たちに負い目があるのだ、私は」
「……」
 テスはそっと王の背に両腕をまわした。彼らはこれが最後だとでもいうように、固く抱き合っていた。
「……もう、行きなさい。お前の顔を見て元気が出た…と言いたいところだが、さすがに疲れた。出たら女官を呼んでくれ」
 名残惜しげにテスの身を離した王は、テスが床に降りると力を抜いてクッションにもたれかかった。
 テスは軽く膝を折り、優雅な礼をした。
「かしこまりました。陛下、どうかお体をおいといください」
「うむ。そなたもな」
 そのままの姿勢で2、3歩下がると、テスはくるりと身を翻して扉へと向かった。慌ててエドも深々とお辞儀をして彼のあとを追った。振り返らなかったテスの代わりに扉を閉めるため後ろを向いたエドは、王へと目を走らせた。王もまた、目を閉じ、テスを見送らずにいた。
 ファビウスはそのまま王宮に残り、ルキスが彼らを別邸まで送り届けた。帰り道の馬車の中でテスは、黙り込んで、物思いに沈んでしまった。テスとは乳兄弟だという、実年齢でも年上だろうルキスは、物静かで控えめな青年で、臣下の立場を崩そうとはせず、時折気遣わしげな目を向けても自分からテスに話しかけることはなかったので、馬車の中の沈黙は別邸に着くまで破られることはなかった。
「……今日はすまなかったな、ルキス」
 別邸の玄関まで供をしたルキスに、テスは言った。ルキスは栗色の真っ直ぐな髪を振った。
「とんでもない、殿下。国王陛下にお会いになることができて、ようございました」
 使節派遣の詳細が決まったら連絡をすると言い置いて、ルキスは帰っていった。
 部屋に戻って着替え、エドがリビングに出てきても、テスが自室から出てくる気配はなかった。彼といるのが気詰まりなのか、考えごとをしたいのか、おそらく両方だろうと思い、石を飲み込んだような重い気分で部屋に戻った。彼にも考えたいことはあった。
 国王の言葉はどういう意味だったのだろう。彼が示唆したことは、果たして自分が受け取った内容で合っているのだろうか。
 この世界に迷い込んで以来、元の世界に帰れるか帰れないかしか考えたことはなかった。帰れるものならば帰りたい、いや、帰る以外の選択肢がある可能性すら思いつかなかった。なのに、国王は何と言ったのか。
 国王は、彼には「この世界に来なければならなかった」「仮初めとなるかならないかはあなた次第」と言い、テスに対しては「エドの選択はお前の選択」「宮廷に戻ることも戻らないことも、臣籍降下も許す」と言った。それは……
(ここに残れと……ここに残るという選択肢もあるいうことなのか?そして……テスが望めば、テスは王子の身分を捨て、俺と……)
 にわかに鼓動が速まり、てのひらに汗が滲んだ。
(俺と生きていくこともできると……?)
 胸の動悸は、その可能性への期待と喜びのためだけではなかった。ここに残るという選択のもたらすだろう結果への重圧のせいでもあった。
(テスは、俺の気持ちを考えて、戻れなかったら、戻る方法が見つからなかったら、とは一言も言わないけど……戻るには奇跡を待つしかないなんてこと、俺だってわかってる。ネルヴァ族が昔、他の世界から来たという伝説があったって、つまりは彼らも戻ることができなかったということだ。だからこの旅は、俺が諦めてここに住む決心をするためのものでしかない。テスだって、最初からそのつもりで言葉や習慣や知識を教えてくれていたのだろうし)
 帰れないだろうとわかってはいても、認めるには覚悟がいる。どこかで生きているだろう両親、引き取ってくれた養父母、友人たち、バイト先の仲間、今までであったすべての人々と、二度と会えないということ。考古学者になり、知られざるかこのページを埋めたいという夢を捨てなければいけないこと。
 電気や水道のある便利な生活や、映画にスポーツ、ドライブにゲームにインターネット…、溢れかえっていた遊びにはたいして未練はない。もともと「生活の豊かさ」への欲はあまり感じたことはない。ここでの生活も慣れればさほど不自由とは思わなくなった。
 だから本当につらいのは、たとえ少なくても細くても、彼がたどたどしく結んだ人々とのつながりと、夢を失うことだった。そして彼に残されるのは……
(君と出会って、まだ3ヶ月も経っていないんだね、テス……)
 店で買い物をしたり宿をとったり、見ず知らずの他人には愛想を振りまくくせに、笑うのが罪悪だとでもいうように、エドに見せるのは眉間にしわを刻んだ仏頂面ばかり、めったににこりともしなかった。
 けれどもその作りものの表情の下にある厳しくも優しい心は、出会ったときからエドを支え続けてくれた。でなければいくら楽観的な彼といえど、もっと落ち込み、絶望し、やけになっていたことだろう。この世界に興味を持ち、楽しむ余裕さえ持てたのは、テスがいたから、出会ったのがテスだったからだ。
 テスを愛している。彼がずっとあの姿のままでもかまわない。彼を失いたくない。──だがもし、帰れるとなったら、自分は元の世界を捨てて、彼を選べるだろうか?彼と永遠に別れて、帰ることを選べるだろうか?
 エドは膝の上に肘をつき、祈るように握った手に額を押しつけた。
 選べない。選べるわけがない。
 彼は自嘲して唇を歪めた。
(こんな……百万分の1の可能性で悩む前に、テスが俺を選んでくれるとは限らないよな。恋人だった……弟王子よりも……)
 テスが国を出る原因となった彼の弟。未来のローディア国王。会ったことなどなくても、エドは、自分と彼とを比較できるとすら思えなかった。何も持たない、テスの負担にしかならない、異世界の人間である自分では、比較の対象にすらなれない。気持ちだって、彼がテスをまだ愛していると主張したら、元の世界を捨てると言い切ることもできない自分が何を言えるだろう?ずっと一緒にいて、恋をして愛し合っていた相手より、出会って3ヶ月にもならない自分の方を好きになってもらえた自信など、どこを引っくり返しても出てきやしない。
(一族のところへ行くまで返事は保留してくれとテスは言った。それまでに俺も、心を決めよう。……そして、ここで一生を終える覚悟ができたら……そしたら、テスにもう一度好きだと言おう。……彼の返事がどうだろうとも……)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。