( 岩手関山・中尊寺近郊 )
ゆく水に紅葉をいそぐ山祠 飯田蛇笏
添水樋に沈む紅葉の鋭さよ 細見綾子
水もまた燃ゆる彩とし櫨紅葉 桑田青虎
照紅葉囮に水をつかはする 瀧 春一
中尊寺うばたまの暗つゞれさせ 山口青邨
( 多羅葉の葉・とりもちの木 )
川越の川越八幡の神木になっている多羅葉の木です。葉の裏側を木切れで
字を書くとすぐに黒くなります。昔はこれに文や歌を書いたのでしょう。
これから葉書という言葉ができたようです。
八幡様は源氏の守り神だそうです。
多羅葉の実の真つ赤なる修二会かな 細川加賀
多羅葉の大樹けやけき神の留守 河東碧梧桐
多羅葉をみだれ打つたる霰かな 京極杞陽
( 川越祭り・宵宮 )
身にしみて夕風きよき宵宮かな 久保田万太郎
宵宮の間遠の笛の音それも消ゆ 松本佳子
☆連衆と連れ立って川越祭りを堪能しました。
このお祭りの起源は古く慶安元年(1648)城主の松平伊豆守信綱が,氷川神社
へ神輿や祭礼用具を寄進して祭礼を奨励,同4年(1652)に神幸祭が氏子の
町々を渡御したことから始まったそうです
現在,旧市街を曳きまわす山車は29基、今年のお祭りには15基の山車の
巡航が見られます。
普段は、吟行から句会へと時間の限りのなかで見ている景色も、のんびり歩くと
発見・感動が多く受けました、それを句になせれば良いのですが・・・
( 黄花秋桐 )
かたまりて通る霧あり霧の中 高野素十
朝霧や消え残る灯の港町 寺田寅彦
夕霧を来る人遠きほど親し 野澤節子
青年が背後に居りし夜霧かな 池田澄子
☆ 俳句を教わると言うこと、俳句を学ぶと言うこと
俳句の上達に何が一番大切か?自分なりに考えてみた、今分かることは
素直な気持ちで俳句に熱心に向かうほかは思いつかない
俳句を数年(初心者から出た辺り)やれば句会などでも点が入り,時には
指導者の選にも入る。この辺から持論が出てくる、決して悪いことではないが
その持論を曲げない防御が時に働き、肝心な吸収する心を閉ざすことになる
考えてみれば、俳句は雑草に、乳飲み子に、捨て猫に教わっている事もある
それは心を開いて対しているからで、そこに人が介在すると少し違うようだ。
指導者に教わることは勿論,先輩や初心者に教わることも大いにある。
阿部筲人著「俳句ー四合目からの出発」を是非一読して欲しい。
初心者を麓十合目と考えての俳句の学びの心得の著書である
上達にセオリーは変えられない。一歩一歩素直な気持ちで山頂を目指すこと
に他ならない。
これは私感だが、指導者は自分の今の俳句作品をもって指導にあたる
俳句の理論や知識は本で充分。学ぶ側からすれば「こんな句を詠んでみたい」
と思う一種の憧れが指導者に惹かれ、指導を素直に受け入れられるのだと
思う。ころころの将来の夢は俳句で世の中に恩返しができるようになること。
ゆっくり本当の力をつけるため、まだまだ学習です