( 明日葉 )
明日葉やいのちといふはまつ青な 笹本千賀子
明日葉と濤胸襟を開き合ふ 町田しげき
芹よりも明日葉匂ひ売られけり 石塚友二
俳句を詠む人にはおおよそ二通りのタイプがいる。
約半数は吟行しなければ句が詠めない人、他の半数は吟行では
句が詠めない人。
ころころは後者からの脱出を図っているが、句作とは景色を凝視して
沈黙思考するものでは,無いように思う。
言葉で言えば 「俳句は直感」、その直感は日頃の体験の蓄積を
裏付けにしてのみ生まれる直感だろう。
( 黄梅・迎春花 )
黄梅ゃ鎌倉山に風出でぬ 嶋田麻紀
魁けし花は黄光迎春花 阿波野青畝
黄梅の春のはじめの黄なるかな 大橋敦子
かく晴れてゐてかく寒し迎春花 河原白朝
久しぶりに右脳が動く
大切な俳句仲間の一句がそのきっかけかも知れない
詩情について、再考させられる。
ころころ流に言えば、それは主観と客観の狭間にあるように思っている。
感動(主観)を物(客観)に託す。これが難しいがそこに詩情が生まれる。
言いたい事をいかに削り、感動(発見)を伝えられるのかが本物の俳句
だと信じて。それが正しいのか誤っているのかは分からないが。
たった17音だから言葉一語一語の分量に主・客の見え隠れがはっきり
見えてしまう。
分かりすぎても,分からな過ぎても詩は見えてこないから・・・
俳句は勉強ではわからない・修練でしか得られないと思っています。
( 芹 )
芹摘みて雲に遅れてしまひけり 福永みち子
のべし手にきらめき移る芹の水 岡本まち子
水よりも風の冷たき芹を摘む 岡田 和子
「俳句は無名がいい」 飯田龍太
この言葉がころころの座右です
今日のNHK俳句のゲストは歌人の佐佐木幸綱、彼の自慢は当時産科医で
あった水原秋桜子に取り上げてもらったこと、高校の国語の教師が草田男で
有った事だと聞いて本物を感じました。
前に先師から佳句は一人歩きするもの、作者の手から離れれば人の心へ
どのように届くかが俳句の楽しみでもあると教えてもらいました。
昨今では、点数や賞で人格までも評される傾向にありますが、一喜一憂しても
作者ほど読者は気にしていないものです。
先輩諸氏には過去,仕事や社会活動においても中心的な役割をされてきて
いる方も多いと思いますが、佳句の前では,そんなプライドも微塵となります
そんな挫折も上達へのスピリットとなるはずです。
俳句は楽しむことが一番ですが、句会がお楽しみ会になることとは違います
「大の大人が」真剣に真向かっても、なかなか上達しないから面白いのです
結社などでは「句」より「名」と、活動している人も見かけますが、とても滑稽
ですが、それも人の生き様で否定は出来ません。
一人でも多くの読者にできれば俳句をそう知らない人にも届く詩を詠みたいと
精進しています。
まだまだ仕事中心の日常に席を置くころころで、現在満足のゆく俳句活動が
出来ませんが、いつかその日を夢見ています。
( 黄水仙 )
いろいろ有って,ブログを休むことが多くなりましたが,元気に仕事に
励んでいます。ご心配のメールなども頂き,感謝です。
俳句の方は、取材?の散歩はするように心がけていますが、詠んでは
いません。
ころころの場合、詠むとなったら一晩50句はOK!
と大口を叩くかのように聞こえるでしょうが・・実際、俳句の習いたての頃は
そうやって鍛えられました。でも内容はご紹介できないほど拙いものです
多作多捨は初学の頃、今はその時間に推敲にあてています。
推敲で一番大切にしている事は「季語」の斡旋です
季語から詠んだ句はそれなりに直感が活かされて動く事がないのですが
先に物語が出来た句、つまり後に付け足した季語はなにか気になって
仕方が有りません。
勿論中心(眼目)は物語(写生・体験)に驚きがあるか?
月並みではないか?
それから、助詞,副詞の間違いが無いかの確認
最後にこれはかなり気にかけている事です。韻。リズムがいいか?
俳句は三つ折りになってはいけません。
一気に書き下ろすか、二つ折りにするか?二つ折りにした場合お互いが
響き有っているか?そんな事を考えながら推敲しています。
今の自分の力で出きる推敲です。
黄水仙家の中まで水照りてきて 下鉢清子
ヘッドフォーンはみ出す音色黄水仙 葛城千世子
黄水仙ひしめき咲いて花浮ぶ 高濱年尾
( 赤塚城址梅林 )
梅林といふ密々の花のこゑ 上田日差子
梅林の花のはじめは花の声 阿部千代子
今年の東京は暖冬です。三月の梅祭まで梅の花がもちそうも有りません
白梅の明るさに在りいくさ址 ころころ