゛まるかん人゛プラトーク

元気とキレイを追求すると、人生は楽しく過ごすことと・・・!?

循環型社会先取り<北広島市の取り組み㊦>

2009-03-23 18:26:11 | ほっかいどう関連情報

土に返す 生ごみ減へ施設改修

100_1040 北広島市が注目したのは石川県珠洲市。能登半島の先端にあり、同県内10市の中では人口が最も少ない約1万7千人の観光と農業の町だ。同市は下水にし尿と生ごみを合わせ、同時に処理する先進的な施設を一昨年8月から、本格的に稼動させた。既存の下水処理施設を改修することで初期投資を削減し、分解過程で発生するメタンガスは汚泥を乾燥させるボイラ-燃料として再利用し、運転コストを抑えている。さらに処理後の残りかすを肥料として使うことで循環型のモデルを構築する、全国初の試みだ。微生物による分解過程で出たメタンガスが順調に回収、再利用されているのを目の当りにした北広島市環境部の村上精志参事は「北広島が目指す施設とほぼ同じ。これまでの下水に加え、生ごみの受け入れ方を確立すれば実現可能だ」と自信を深めた。北広島市では毎年2回、家庭から出されたごみを調査している。生ごみは、無作為抽出した2百㌔、のうち、重量換算で約4割を占めた。市廃棄物対策課は「生ごみがなくなれば、埋め立て地の延命はもちろん、埋め立て地の近隣住民から苦情が多いカラスが減ります」とメリットを強調する。生ごみを下水と一緒に分解処理した場合、メタンガスの発生量は、生ごみ1㌧あたり120立方㍍と試算される。下水処理の約6倍にあたり、現在、追い炊き用に使っている年間130㌔㍑分の重油(約900万円相当)が節約できコスト削減が見込まれる。北広島市にとって、メタンガスの再利用は下水処理施設で経験済み。生ごみを破砕選別する施設と、微生物による分解のための消化槽を増設するだけでよい。「建設コストは珠洲市より安価。後は微生物が生ごみを、分解してくれるか、テストを行うだけです」(同課)。新しい施設は2011年稼動する予定だ。「北広島は農村から発展した町。以前から“土に返す”という考え方があったことが、バイオガス化を導入しようとする原動力となっている。特産品がないと言われるが、環境問題に取り組む先進的な町として全国に発信していきたい」。村上参事は力を込めて話した。

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循環型社会先取り<北広島市の取り組み㊤>

2009-03-23 17:22:56 | ほっかいどう関連情報

肥料 下水を微生物で分解

100_1039 「今春も立派な花が咲くはずだよ」。北広島市の無職及川健一さん(71)は昨年11月、自宅庭に使い慣れた肥料をまいた。市下水処理センタ-の処理過程でできた「乾燥おでい」。市内の学校や公園でも利用され、農家42戸でつくる「北広島市乾燥おでい農地利用組合」の野村輝治理事長は「作った野菜は根の張りも味も良い」と太鼓判を押す。1979年から始まった乾燥おでいづくり。下水を微生物の力で分解し、発生した汚泥を脱水処理して乾燥させる。分解過程で出るメタガスは、汚泥を乾燥させるための燃料だ。北広島市はリサイクルが叫ばれる以前から循環型社会を先取りしてきたといえる。同市は1884年(明治17年)、広島県から移住した25戸103人が開拓のくわを下ろした。寒地稲作発祥の地として知られる。札幌のペットタウンとして1970年ごろから人口が急増。市制を執行した96年には5万4千人を突破した。家庭ごみの排出量も増加の一途で、市民1人が1日当りに排出する量は98年度で9百㌘。「ごみ減量をPRし、2000年には8百㌘を切るまでに減ったが、人口が毎年約1%増え年間の全体量1万7千㌧からの減少は難しい状態」(市担当者)となった。人口も04年に6万人を超えた。近隣の5市町と協力して進めていた共同の焼却施設建設予定地が開発局が進める千歳川河川整備計画の遊水地の候補地と重なり振り出しに。焼却施設建設計画の中心にいた高橋通夫企画財政部長は「いずれ埋め立て地は満杯になることが分かっていた。生ごみを分別処理し減量するしかなかった」と振り返る。ごみ担当職員が注目したのは北陸地方の石川県珠洲市。生ごみと下水を微生物の力で一緒に分解し汚泥を作り、発生するメタンガスをボイラ-燃料にして乾燥させていた。高橋部長には「北広島市では既に下水を循環処理しているわけだから、そこに生ごみを加えることは技術的に難しくない」という確信があった。同市は急きょ、能登半島の小さな町に担当職員を派遣した。

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ウンチクがんちく「パンの世界(21)」

2009-03-23 15:45:23 | うんちく・小ネタ

パン教室「カフェ・タブリエ」主宰 森本 まどか                                          職人になったジャンプ少年

100_1143 20年ほど前、札幌のジャンプ少年団に入るため東京から来た少年がいました。マンションの1階には小さなパン屋さんがありました。少年はさびしさも手伝って、学校から変えるとパン屋の店先にいるようになりました。パン屋を切り盛りしていたのは、まだ若い職人。製造も配達も大忙しでこなさなければなりません。パンの作り方を店先で見ていた少年は、いつの間にか、タイマ-が鳴ると止めたり、時には、焼きあがったパンをいきました。この窯から出したり、一人前に手伝いができるようになっていきました。このころから少年は「大きくなったら絶対パン屋さんになる!」と決めていたのだそうです。その少年が大人になり、もう一度この店で、今度は職人として働くことになりました。そしと修業が終わり、ついに念願のパン屋を開店したのです。少年は、毛利将人さん。東京代々木上原の「マンマ-ノ」というすてきなパン屋さんです。留守番を頼んでいた若き職人は「ム-ラン・ド・ギャレット」の渋谷英樹さん。今や北海道を代表する名店です。マンマ-ノ開店の時、自分の店を留守にして、誠心誠意手伝いをしていた渋谷さん、素晴らしい師弟関係です。

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