昨今はどこの世界でも、所謂「二世」が多くなったように感じられる。身近な人の後を継いで自分の人生を組み立てるというのは、それだけ継がれるほうの生き方に魅力があるということでもあるのだろうし、継ぐほうが親を超えようとする意欲を持っている限りにおいて、そこに何がしかの進歩や発展が期待できるというものである。しかし、世襲が当然ということになると、社会としては新しいことに挑戦する気概が殺がれ、閉塞感に襲われやすい状況になる危惧もあるのではないだろうか。
90年代のバブル崩壊以降、この国は政治も経済も基調として凋落の一途を辿っているように思われるのだが、そうした背景のひとつには、既存の発想や価値観を打破しようとする気概が乏しい社会にあるように思う。敗戦の混乱から国民ひとひとりの努力の積み重ねとそれを後押しするかのような無数の僥倖に恵まれて奇跡的ともいえる復興を果たし、その頂点があのバブルであったような気がする。そして、その成功体験が裏目に出ているのが今という時代なのではいだろうか。経済成長のなかで築き上げられてきた様々な仕組みがあり、そのなかには大小様々な閨閥の復活とか形成といったものもあるのだろう。そうした権威が幅をきかせるようになると、ろくに考えもせずに既存の権威に盲従する風潮が蔓延しやすくなるように思う。権威に合理性があるのならそれでもよいのだろうが、考えるという習慣が失われてしまうと、この国の実質はやがて消えて無くなるのだろう。
さて、好楽・王楽の二人会を聴いた。親子でありながら、兄弟弟子という珍しい関係である。落語の世界では、子が親を師匠として芸の鍛錬を積むというのはよくある。しかし、子が親と同じ師匠につくというのは聞いたことがない。おそらく、親の側、子の側、それぞれに考えがあってのことなのだろう。私は落語のことは何も知らないので、あれこれ批評することはできないが、単純な感想としては、なるほど芸に関しては親子ではなく兄弟だなと思う。
二人の師匠は先日亡くなられた三遊亭円楽だ。似たところは無いように感じるのだが、好楽の演目が「薮入り」という人情噺であった所為か、そこには円楽を彷彿とさせるものを感じた。対する王楽は「三方一両損」で、噺の舞台が江戸時代ということもあり、噺家の内容の咀嚼が不十分であるように感じられた。円楽から稽古をつけてもらった演目なのだそうだが、師匠最晩年の弟子という所為もあるのだろう。真打を襲名するにしては、付け焼刃的な感が、少なくとも私のなかでは、否めなかった。
落語には舞台装置というものが殆ど無い。技巧も大事だろうが、語る話を自分のものにできていなければ、相手の心には伝わらない。古典落語のように話の時代背景が現代とは大きく異なる場合、どうしても自分の人生に重ねることが困難な部分というのは残るのが当然だろう。だからといって、自分の体験として取り込むことのできない部分を残したままにしておくと、話がまるごと他人事になってしまい、その噺が本来備えていたはずの、人の琴線を震わせる躍動感が失われてしまうように思う。結局のところ、舞台装置がない芸というのは、芸の主の人間としての総合力が問われているということなのだろう。つくづく難しい芸だと思う。
勿論、鑑賞する側にもリテラシーが要求される。演じ手と聴き手とが互いを高めあうことで、そこに単なる話芸を超越した世界が展開する、というのが理想の落語というものだと私は思う。個人的な体験として、その理想が実現される場にめぐりあいたいものだと思うのだが、それは宝くじの一等を当てるよりはるかに困難なことだろう。
90年代のバブル崩壊以降、この国は政治も経済も基調として凋落の一途を辿っているように思われるのだが、そうした背景のひとつには、既存の発想や価値観を打破しようとする気概が乏しい社会にあるように思う。敗戦の混乱から国民ひとひとりの努力の積み重ねとそれを後押しするかのような無数の僥倖に恵まれて奇跡的ともいえる復興を果たし、その頂点があのバブルであったような気がする。そして、その成功体験が裏目に出ているのが今という時代なのではいだろうか。経済成長のなかで築き上げられてきた様々な仕組みがあり、そのなかには大小様々な閨閥の復活とか形成といったものもあるのだろう。そうした権威が幅をきかせるようになると、ろくに考えもせずに既存の権威に盲従する風潮が蔓延しやすくなるように思う。権威に合理性があるのならそれでもよいのだろうが、考えるという習慣が失われてしまうと、この国の実質はやがて消えて無くなるのだろう。
さて、好楽・王楽の二人会を聴いた。親子でありながら、兄弟弟子という珍しい関係である。落語の世界では、子が親を師匠として芸の鍛錬を積むというのはよくある。しかし、子が親と同じ師匠につくというのは聞いたことがない。おそらく、親の側、子の側、それぞれに考えがあってのことなのだろう。私は落語のことは何も知らないので、あれこれ批評することはできないが、単純な感想としては、なるほど芸に関しては親子ではなく兄弟だなと思う。
二人の師匠は先日亡くなられた三遊亭円楽だ。似たところは無いように感じるのだが、好楽の演目が「薮入り」という人情噺であった所為か、そこには円楽を彷彿とさせるものを感じた。対する王楽は「三方一両損」で、噺の舞台が江戸時代ということもあり、噺家の内容の咀嚼が不十分であるように感じられた。円楽から稽古をつけてもらった演目なのだそうだが、師匠最晩年の弟子という所為もあるのだろう。真打を襲名するにしては、付け焼刃的な感が、少なくとも私のなかでは、否めなかった。
落語には舞台装置というものが殆ど無い。技巧も大事だろうが、語る話を自分のものにできていなければ、相手の心には伝わらない。古典落語のように話の時代背景が現代とは大きく異なる場合、どうしても自分の人生に重ねることが困難な部分というのは残るのが当然だろう。だからといって、自分の体験として取り込むことのできない部分を残したままにしておくと、話がまるごと他人事になってしまい、その噺が本来備えていたはずの、人の琴線を震わせる躍動感が失われてしまうように思う。結局のところ、舞台装置がない芸というのは、芸の主の人間としての総合力が問われているということなのだろう。つくづく難しい芸だと思う。
勿論、鑑賞する側にもリテラシーが要求される。演じ手と聴き手とが互いを高めあうことで、そこに単なる話芸を超越した世界が展開する、というのが理想の落語というものだと私は思う。個人的な体験として、その理想が実現される場にめぐりあいたいものだと思うのだが、それは宝くじの一等を当てるよりはるかに困難なことだろう。