熊本熊的日常

日常生活についての雑記

詫びるということ

2009年11月12日 | Weblog
夜勤とはいえ、終電に間に合う時間には職場を出ている。平日はほぼ毎日、終電かその一本前の電車を利用して帰宅している。鉄道というものはダイヤ通りに運行されるものと信じていたが、少なくとも深夜の山手線は時刻通りに運行されていることのほうが少ない。理由は「○○駅で線路に人が立ち入った」とか、「△△駅で非常装置が作動したため安全の確認」とか、要するに客側の問題であることが多いようだ。尤も、そのような構内放送があるというだけで、それが事実であるかどうかはわからない。

そのような事情がある所為かどうか知らないが、車掌や駅職員の「電車が遅れましたことをお詫び申し上げます」という言葉の調子は、どこか投げやりで、「詫びる」という意味が理解されていないのではないかとすら思われる。不測の事態により鉄道の運行に支障が出るのは止むを得ないとしても、そのことへの対処が、客への侘びも含めて本当に適切なのだろうかといつも疑問に思うのである。

障害が発生したときの列車運行上の対処に関しては、私の関知するところではないが、客に対する心遣いというものは無きに等しいように感じられる。詫びるのであれば、詫びる気持ちを持って言葉を発して欲しいものだ。口先だけの「お詫び」は、かえって不愉快だと思うのは私だけだろうか。

極端な対比であることは承知しているが、かつて硫黄島において日米間の戦闘が行われた際、日本軍の責任者であった栗林中将は、いよいよ最後の突撃に出発するに際し、本土へ打った電文にこのように記述している。

「戦局、最後の関頭に直面せり。敵来攻以来、麾下将兵の敢闘は真に鬼神を哭しむるものあり。特に想像を越えたる物量的優勢を以ってする陸海空よりの攻撃に対し、宛然徒手空拳を以って克く健闘を続けたるは、小職自ら聊か悦びとする所なり。

然れども飽くなき敵の猛攻に相次で斃れ、為に御期待に反し此の要地を敵手に委ぬる外なきに至りは、小職の誠に恐懼に堪えざる所にして幾重にも御詫申上ぐ。

今や弾丸尽き水涸れ、全員反撃し最後の敢闘を行はんとするに方り、熟々皇恩を思い粉骨砕身も亦悔いず。

特に本島を奪還せざる限り、皇土永遠に安らかざるに思ひ至り、縦ひ魂魄となるも誓って皇軍の捲土重来の魁たらんことを期す。

茲に最後の関頭に立ち、重ねて喪情を披瀝すると共に、只管皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ永へに御別れ申上ぐ。

尚父島、母島等に就ては、同地麾下将兵、如何なる敵の攻撃をも断乎破摧し得るを確信するも、何卒宜しく御願申上ぐ。

終りに左記駄作、御笑覧に供す。何卒玉斧を乞う。

左記

国の為重きつとめを果し得で矢弾尽き果て散るぞ悲しき

仇討たで野辺には朽ちじ吾は又七度生まれて矛を執らむぞ

醜草の島に蔓るその時の皇国の行手一途に思ふ」

こちらは「御詫申上ぐ」のところだけ抜き出すのが不遜に思われて、全文を引用してしまうほど重い「お詫び」だ。極端を知れば、その間が中庸ということになるだろう。人の生活というものは、中庸でありたいものである。