熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「行旅死亡人」

2009年11月23日 | Weblog
出演者には申し訳ないが、登場するのは知らない俳優ばかりである。それでも、十分に面白いと思った。無理してギャラの張る俳優を使わなくても、良質な作品を作ることができるということである。実話に基づいているという所為もあるのかもしれないが、物語の構成が明瞭で、全体としても、部分を構成しているサイドストーリーにしても、論理の破綻が無いので、安心して最後まで物語の展開に身を任せることができる。華はないけれど、アイデンティティとか夫婦の絆といった普遍性のあるテーマが盛り込まれた見応えのある作品だ。

「行旅死亡人」というのは法律用語で「こうりょしぼうにん」と読むのだということを初めて知った。身元不明で亡くなった人のことで、この映画に登場するような訳ありの人である場合もあれば、北朝鮮の工作員というようなケースもあるのだそうだ。

自分が自分であることを証明するというのは容易なことではない。昨今、個人情報というものに対し必要以上に過敏な人が増えているように感じられるのだが、確かに、住所だの電話番号だのは自分を表す記号ではあるが、それらが自分そのものであるわけはない。現に、重大事件の犯人が懲役を終えた後、名前も戸籍もすべてを一新して娑婆に戻ってくる事例もあるのだから、「個人情報」というものに実体があるわけではないのである。

それにしても、替え玉殺人が事故死のまま処理されてしまうのでは、警察の実況見分というのは無意味ということだろう。最近話題になった婚活詐欺の被害者も、実体としては限りなく殺人に近いと思うのだが、自殺として処理されていた案件が複数存在する。ある特定の人物に関係する人々が、揃いも揃って練炭自殺を図っていたら、そこに事件性を見出さないほうが不自然であると思われるのだが、被害者が所轄の警察を超えて存在する場合には、それらを結び付ける発想というのは、少なくとも警察の側からは生まれないものらしい。確かに、厄介な事件を抱え込んで別の部署との連絡や調整を要する面倒な作業に関わったり、ただでさえ低下が続く検挙率をさらに低迷させる可能性を増やすよりは、交通違反のような身近で容易に検挙できる事件処理に注力したほうが、警察関係者自身の保身に有利であるという官僚的事情があるのは想像に難くない。人間の行動原理の根底に自己保存というものがあるのは常識だ。

ところで映画のほうだが、替え玉殺人を犯したほうの事情としては、天候不順によって栽培している農作物が壊滅的打撃を受けて生活に窮したという同情すべきところもあるという設定だ。その農家の夫婦が事故と見せかけて妻が亡くなったことにして保険金を受け取り、その金を元に夫が生活の立て直しを図り、事件が時効となる15年後に夫婦としての生活を再開するという計画なのである。

15年もの間、別々の生活を送りながら、夫婦としての関係を維持できるものだろうか。夫婦とか親子というのは、結局のところは幻想ではないかと思う。健康な精神は、自己の領域を確かなものと認識することによってのみ維持できる。人は密度の濃い幻想で自己を包み込むことによって精神の安寧を得ていると思うのである。ごく普通に家族関係を持つ人にとっては、それが良好であるか否かに関係なく、親子であるとか夫婦であるということは既成のものとして認識されていると思う。この作品で自分を消して潜伏生活に入った妻のほうは身寄りが無いという設定になっている。つまり彼女が自己の存在を確かなものにするのは夫の存在以外に無いのである。だからこそ、8年間も世間の隙間に身を埋めるようにして生きることができたのであろうし、おそらく病を得なければ15年間の時効を全うできたであろう。夫のほうを取り巻く人間関係は描写されていないのだが、親兄弟の存在を示唆するものが登場してこないので、おそらく似たような状況という設定なのだろう。こうした特殊な状況を想定することによって、この物語はファンタジーではなく、極めて現実的なものとなるのだと思う。