子供と話をしていたら、学校の図書室で「竜馬がゆく」の何巻目と何巻目がいつもなくて読み始めてはみたものの一向に読み終わらない、というので自分が持っている司馬遼太郎の作品を譲ることにした。「竜馬がゆく」も持っているのだが、「坂の上の雲」から渡すことにして、その前に再読してみた。
「子は宝」という言葉がある。第一義的には次世代の担い手としての価値を表現しているのだろうが、個人にとっては己の思考を深める触媒としての価値をも表現している。子供に何を伝えることができるかということを考えることは、自分の生き方を考えることでもある。生き方を考えることは、自分が置かれた状況を考えることでもある。
以前に何度も書いているが、人は生まれることを選ぶことができない。どの時代にどの国のどの親のところに生まれるか、当事者に選択の余地はない。生まれたが最後、その生を全うしなければならない。にもかかわらず、生とか命というものに過剰なまでの価値を置こうとする考え方が世の中に蔓延しているのは、そうしないと秩序が維持できないからだろう。生命体がその自己保存のために自らのなかに組み入れた先天的な思考パターンのようなものだ。とはいえ、生命の継承が目的なら、100ある命が100のまま維持されなければならない必然性は無い。1つでも2つでも次世代につながるなら、それで十分ということになる。
自分は、現在のところその継承作業に微力ながらも寄与できたことになる。生命体としての使命は果たしたので、もう何時生きることを止めてもかまわないということだ。それでも敢えて残された義務のようなものがあるとすれば、その継承した生命をより強固なものにすることだろう。それは様々な意味における知恵を次世代と共有し、その発展のために協働することだと思っている。
そうした協働作業のためには具体的な媒介物が必要不可欠である。本とか映画といったもの、あるいは文学と呼んでもよいかもしれないが、そこに描かれる無数の仮想人生が物事を具体的に考える際の絶好の材料になる。ここで言う「文学」には映画や美術も当然に含み、仕事とか社会での処世術といったものも包含するものとしておく。健康な親子の関係というのは、端的に語るなら、そうした文学を語り合える関係である。文学を語り合えない親子というのは、その関係が根本から崩壊しているということだ。
子供というのは自分にとっては最も身近な他人であり、自分の分身でもある。そこに自分自身の影を、程度の差こそあれ、見るものである。親の存在も同じである。身近な他人の姿を目の当たりにすることで、そこから人は何事かを学ぶのである。人というものの実体は不定形であり、そこに刺激を与えることで得る反応にその人を見るのである。その刺激には自分が良きにつけ悪しきにつけ心を動かされた文学が良い。それについて感じたことや考えたことを相手に投げかけてみて、どのような反応があるかというところに、自分と相手との距離もおのずと見えてくるものだ。
司馬が取り上げる人物は皆美しい生き方をした人たちだ。「美しい」というのは自分が何者であるのかということをとことん追求している姿だ。明治という時代がどのような時代であったのかということは、想像に任せるしかないのだが、人々の価値観の軸が大きく振れた時代であったことは確かだろう。だからこそ、列強がその混乱に乗じて火事場泥棒のように乗り込んできたのであろうし、窮鼠が猫を噛むが如くに、そうした列強に立ち向かわなければならない状況もあったのかもしれない。いずれにしても、現代の日本とは比べ物にならないほどに困難な時代であったことだろうと思う。
「坂の上の雲」では、そうした時代を生きた3人の人物に焦点が当てられ、彼等が活躍した2つの戦争が描かれている。人の真価というものは、その人が困難な状況に陥ったときにこそ発揮されるものだ。どこまでが史実でどこまでが虚構なのかは知らないが、彼等3人の生き方に、その強さに、圧倒される思いがした。日々の暮らしのなかで、些細なことに不平不満を抱いている自分自身が、とてつもなく矮小に感じられて、恥じ入る思いである。そういう矮小さも含めて、この作品について考えたことを、いつか子供と話してみたい。
「子は宝」という言葉がある。第一義的には次世代の担い手としての価値を表現しているのだろうが、個人にとっては己の思考を深める触媒としての価値をも表現している。子供に何を伝えることができるかということを考えることは、自分の生き方を考えることでもある。生き方を考えることは、自分が置かれた状況を考えることでもある。
以前に何度も書いているが、人は生まれることを選ぶことができない。どの時代にどの国のどの親のところに生まれるか、当事者に選択の余地はない。生まれたが最後、その生を全うしなければならない。にもかかわらず、生とか命というものに過剰なまでの価値を置こうとする考え方が世の中に蔓延しているのは、そうしないと秩序が維持できないからだろう。生命体がその自己保存のために自らのなかに組み入れた先天的な思考パターンのようなものだ。とはいえ、生命の継承が目的なら、100ある命が100のまま維持されなければならない必然性は無い。1つでも2つでも次世代につながるなら、それで十分ということになる。
自分は、現在のところその継承作業に微力ながらも寄与できたことになる。生命体としての使命は果たしたので、もう何時生きることを止めてもかまわないということだ。それでも敢えて残された義務のようなものがあるとすれば、その継承した生命をより強固なものにすることだろう。それは様々な意味における知恵を次世代と共有し、その発展のために協働することだと思っている。
そうした協働作業のためには具体的な媒介物が必要不可欠である。本とか映画といったもの、あるいは文学と呼んでもよいかもしれないが、そこに描かれる無数の仮想人生が物事を具体的に考える際の絶好の材料になる。ここで言う「文学」には映画や美術も当然に含み、仕事とか社会での処世術といったものも包含するものとしておく。健康な親子の関係というのは、端的に語るなら、そうした文学を語り合える関係である。文学を語り合えない親子というのは、その関係が根本から崩壊しているということだ。
子供というのは自分にとっては最も身近な他人であり、自分の分身でもある。そこに自分自身の影を、程度の差こそあれ、見るものである。親の存在も同じである。身近な他人の姿を目の当たりにすることで、そこから人は何事かを学ぶのである。人というものの実体は不定形であり、そこに刺激を与えることで得る反応にその人を見るのである。その刺激には自分が良きにつけ悪しきにつけ心を動かされた文学が良い。それについて感じたことや考えたことを相手に投げかけてみて、どのような反応があるかというところに、自分と相手との距離もおのずと見えてくるものだ。
司馬が取り上げる人物は皆美しい生き方をした人たちだ。「美しい」というのは自分が何者であるのかということをとことん追求している姿だ。明治という時代がどのような時代であったのかということは、想像に任せるしかないのだが、人々の価値観の軸が大きく振れた時代であったことは確かだろう。だからこそ、列強がその混乱に乗じて火事場泥棒のように乗り込んできたのであろうし、窮鼠が猫を噛むが如くに、そうした列強に立ち向かわなければならない状況もあったのかもしれない。いずれにしても、現代の日本とは比べ物にならないほどに困難な時代であったことだろうと思う。
「坂の上の雲」では、そうした時代を生きた3人の人物に焦点が当てられ、彼等が活躍した2つの戦争が描かれている。人の真価というものは、その人が困難な状況に陥ったときにこそ発揮されるものだ。どこまでが史実でどこまでが虚構なのかは知らないが、彼等3人の生き方に、その強さに、圧倒される思いがした。日々の暮らしのなかで、些細なことに不平不満を抱いている自分自身が、とてつもなく矮小に感じられて、恥じ入る思いである。そういう矮小さも含めて、この作品について考えたことを、いつか子供と話してみたい。