熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「千年の祈り」(原題:A Thousand Years of Good Prayers)

2009年11月19日 | Weblog
原作は中国人が英語で書いた小説、監督は香港出身、主演は中国人、プロデューサーは日本人、舞台は米国。私が観る映画を決めるのに、よく参考にしている媒体に掲載された紹介記事。なんとなく期待感が強かった所為か、観終わって少しがっかりした。

物語は12年前に結婚して故郷の北京を離れて米国に移り住んだ一人娘を父親が訪ねるところから始まる。父は離婚した娘の様子を案じ、やって来たのである。娘を元気付けようと、北京で料理教室に通って料理の腕を磨いた父は、娘のために毎日炊事に精を出す。娘の好物を食べきれないほど作って、娘の帰りを待つのだが、娘にとってはそれが疎ましい。友達と食事の予定が入ったと言って一人で映画を観て暇つぶしをしてみたり、恋人と会ったり、なんとか父を避けようとする。それは、そもそもこの親子の関係がぎくしゃくしたものであったという所為もある。父と食卓を囲んでいても、会話らしい会話があるわけではない。そのことが父には気がかりなのだが、娘にしてみれば食卓が静かなのは今に始まったことではないとの思いが強い。父は自称「ロケット科学者」だが、それが嘘であることは娘も亡くなった母も知っていたのである。何故、父がそんな嘘を家族につき通さねばならなかったのか、何故、家族の食卓が無言であったのか。その理由がこの親子のぎこちない関係の理由でもある。父は娘に自分の嘘を指摘され、その弁明を契機に親子の距離が少しだけ縮まる。

作品の造りが大雑把で、露骨に芝居じみている。映画なのだから芝居じみているのは当然なのだが、もう少しなんとかならないものかと思う。

例えば、娘の離婚原因は娘がロシア人と不倫関係に走ったことにあり、娘の寝室のドレッサーにはマトリョーシカが飾られ、オーディオ装置の近くには、CDが無造作に置かれている。娘の留守中に父がそのCDをかけてみると「カチューシャ」が流れ出す。恋人が青森出身だったとして、部屋にねぶたをモチーフにした人形を飾ってみたり、津軽三味線のCDを聴いたりするだろうか。

父の台詞には、物事を前向きに捉えようとする姿勢が強く表現されている。そのことが、作品後半で語られる辛い過去を乗り越えたことで得た彼の人生観を示唆しているかのようである。しかし、無闇に人を励ますのは、本当の苦労というものを知らない人がすることなのではないだろうか。人の感情というものは、深いものほど言葉では表現できないものだろう。節操無く言語化してわかったようなつもりになるのは浅薄で虚飾に満ちていて醜悪に感じられる。

この作品のタイトルの由来は作中の台詞で説明されている。

修百世可同舟
修千世可同枕

人と人との出逢いは長く深い祈りの結果だというのである。だからこそ、何度ひびが入っても修復できる、と。祈って物事がどうにかなるものなら、世界はもっと平和で、人生はもっと気楽であるはずだ。

食事の扱いは上手いと思う。食事を作ることは、単に食欲を満足させるための下準備ではなく、そこに食事を共にする相手への想いが込められているはずであり、ひとりで食べる場合でも、その人の生活というものに対する姿勢が反映されているはずだ。父は食べきれないほどの料理で食卓を埋め、沈黙に満ちた食事があり、残飯を娘が捨てる、というシーンがある。その何気ないシークエンスがこの親子の何事かを象徴しているようだ。何度も書いているので、またかと思われるのは承知なのだが、家族というものに特別な関係であるかのような幻想を抱くことほど不幸なことはないと思っている。その微妙な不幸が、こうした食事の描写で表現されているように見える。

食事の場面に限らず、日常の風景を重ねているのも、親子の感情の微妙な変化を描写するには効果的であると思う。映画のチラシにも使われている場面で、壁を挟んで父が娘に隠していたことを告白するところなどは、部屋の壁が親子の間の心理的な壁を象徴しているかのようであり、視覚的にも壁を挟んでそれぞれの表情が捉えられていて印象に残るものだった。

枝葉末節ながら字幕が気になった。米国を舞台としているが、台詞の殆どが中国語である。ところが、日本語の字幕がついていない箇所がかなりある。特に父が公園で知り合ったイラン人女性との会話のなかにそういう空白が多い。イラン人女性との会話は互いに片言の英語で交わされるのだが、所々に中国語とペルシャ語が混じる。その中国語とペルシャ語に字幕が入らないのである。想像するに、映像翻訳者は中国語の台詞を英文に翻訳したものを日本語に翻訳しているのではないだろうか。つまり、中国語の翻訳者ではなく英語の翻訳者ではないだろうか。作品の中心となる親子の会話は英語訳の脚本があるのだが、背景の一部でしかない公園での会話には英語訳が無く、従って、日本語字幕も付かないということではないのかと思う。英語の翻訳者は掃いて捨てるほどいるのだが、中国語となると映像翻訳者がいないということなのだろう。

昔、3ヶ月毎に台湾へ出張していた時代があった。当時、せっかくの機会なので中国語でも勉強しようと思い、ベルリッツで個人レッスンを受けた。その甲斐あって、少しは中国語もわかるのだが、その後は何も勉強していないので中国語は忘れる一方である。この作品を観ていて、多少認識できる言葉があり、ふと改めて中国語の勉強を再開してみようかなどとも思ってみたりした。