熊本熊的日常

日常生活についての雑記

遊ぶということ

2014年02月20日 | Weblog

たまたま茶の湯関係の本を2冊続けて読んだ。今でこそ茶の湯は「茶道」という道を究めるかのようなものになっているが、その昔は当たり前に誰もが嗜んだ遊びであったという。『山上宗二記』には

「天下に御茶湯仕らざる者は人非仁に等し。」(岩波文庫『山上宗二記』12頁)

とある。厳しい身分制があり、ともすれば閉塞しがちな社会にあって、ガス抜き弁のような役割を担っていたのが茶の湯ではなかったのか。

「諸大名は申すに及ばず、下々洛中洛外、南都、堺、悉く町人以下まで、御茶湯を望む。そのなかに御茶湯の上手ならびに名物所持の者は、京、堺の町人等も大和大名に等しく御下知を下され、ならびに御茶湯座敷へ召され、御咄しの人数に加えらるる。」(岩波文庫『山上宗二記』12頁)

大勢の人が身分や貧富の違いを超えて盛大に盛り上がるというわけではないが、極めて限定された場において極めて静かに盛り上がる世界が茶の湯ではなかったのか。それによって社会全体としての安定をもたらす一助になっていたのではないだろうか。現実にはそういう場で謀の相談とか商談というような生々しい俗事も展開したであろうことは想像に難くないが、世俗を超越した世界が設けられることで世俗の安寧が得られるという効果もあったはずだ。物理的な時空の認識と心理的なそれとは必ずしも一致しないものだが、それにしても自分の身を日常のルーチンから意識的に隔絶させることで、それがどれほどささやかなものであっても、心理的な世界の広がりが格段に大きくなるものである。身分を超えて、人と人として狭い茶室の空間で一時世俗を離れて交流するという仕掛けを持つことで、社会が総体として抱えるエントロピーが軽減されたのではないだろうか。

しかし、日常から離れるというのは容易ではない。『山上宗二記』の「また十体のこと」に

「公事の儀、世間の雑談、悉く無用なり。夢庵狂歌にいう。
 我が仏、隣の宝、聟舅、天下の軍、人の善悪
 この歌にて分別すべし。」(岩波文庫『山上宗二記』95頁)

とある。茶席では宗教、財産、家族の愚痴、政治、他人の噂などを話題にするな、というのである。これらの話題抜きに会話を成立させることのできる人がどれほどいるのだろうか。 茶人の資格として逸話を多く心得ていること、というのがあるそうだ。要するに教養がなければならないということだ。どこかで聞き齧った皮相な蘊蓄もどきではなく、自らの体験経験として感得した様々な知見とそれにまつわるエピソードをたくさん持っていなければ、日常を離れて遊ぶということはそもそもできないのである。

だれもが携帯端末を所持し、なかにはそういうものを複数持ち歩いて、寸暇を惜しんで操作に没頭している人の姿はもはや日常の当たり前の風景だ。これほど多くの人が情報とやらを始終やり取りし合い、外を歩く時間も仕事らしきことに励んでいる人の姿が多いのに、景気は一向に上向く気配はないし、幸せな人が増えたという話も聞かない。つまり、情報通信の発展や発達は然したる価値を生んでいないということだろう。買い物をするときに、ネットで価格を比較して、わずかばかりの値段の違いに一喜一憂をする姿は増えたかもしれない。携帯端末にクーポン画面を表示させて得した気分に浸る人は増えたのかもしれない。要するに人間がセコくなっただけということではないのか。しみったれた奴が増えて寂しい社会に成り下がったということではないのか。「遊び」といえば携帯端末やパソコンでのゲームしか思いつかないというのでは、遊んでいても心寒いのではないかと、他人事ながら心配してしまう。