今は半年更新の契約社員の身分である。現在の契約は3月末で満了となる。今日、直属の上司から呼び出しがあって、契約が更新されることになったと告げられた。これで一応は10月末まで食い扶持を確保できたことになる。一体、いつからこれほど不安定な身分になったのかと我ながら不思議に思うのだが、そもそも安定というものが幻想であったのだから、雇用という生計に直接関わる部分に明快な不安要因を抱えているというのは、自分の置かれた立場というものがわかりやすくなるので良いことなのかもしれない。
よく電車の中刷り広告や出版社の新刊案内などで、雇用不安を大問題の如くに取り上げた記事や書籍の宣伝文句を目にするのだが、あれはよくわからない。経済環境が厳しい局面で企業が雇用を調整するのは当然のことだ。企業というのは利潤獲得を目的とした組織であり、収入が伸びないなかで最大の費用である雇用を調整するのは当然のことだ。確かに調整の仕方にすっきりとしない方法を取るところもあるのだろうが、少なくとも雇用を守る義務はない。それを殊更に問題視するのは、そもそも経済や経営というものに対する誤解があるということだろうし、そういう人たちが記事を書くほうが余程問題ではないのか。大きなメディアで働く記者というのは余程安定した生活を送っているのだろう。安穏とた奴が社会の深層などドロドロとしたものに足を突っ込むことなどできないだろうから、この国にジャーナリズムが存在しないのは当然のことなのである。
それにしても、年齢を重ねていくにつれて雇用を確保するのは困難の度合いを増していく。だからといって、不平不満を並べているだけでは事態は改善しない。結局、今この瞬間の自分にできることを積み重ねていくよりほかにどうしようもないのである。そうやって今を積み重ね続けることで、重ねたものどうしが思いもよらない繋がり方をして新たな展開が生まれることもあるだろうし、自分が意図した積み重ねが思惑通りの発展的結合をすることだって無いとはいえないだろう。そういうことが生きるということだろうし、その面白さなのではあるまいか。
「困った、といったとたん、人間は知恵も分別も出ないようになってしまう。」(司馬遼太郎『竜馬が行く』文春文庫版第7巻 74頁)