新入社員らしい人たちの姿が目についた。今日はそういう日なのだろう。自分が就職した頃と比べて違うことはたくさんあるだろうが、はっきりと違うのは会社のセキュリティカードの有無ではないだろうか。今は職場に行くのに何度もカードキーを翳して解錠しないといけないところがある。昔はそんなものは無かった気がする。内と外とを厳密に分けるのは、そうしなければいけない規制ができたからで、そういう規制ができたのは、規制しなければいけないような状況になったからだろう。ただ、30年前と今とで保護しなければならないものがそれほど増えたとは思えない。所謂「個人情報」の内容が極端に変わったわけではないだろうし、組織の機密が増えたわけでもないだろう。違うとすればそれらの形態と流通経路ではないだろうか。様々なデータがデジタル化電子化されることでそれらの処理作業が格段に容易になると同時に、それらへのアクセス可能性も飛躍的に高くなったということなのだろう。
他人になりすまして組織のなかに入り込むのは、その組織の規模が小さく構成員間で相互に相手を認識するのが容易ならば困難で、規模が大きく構成員の出入りが頻繁で誰が誰だかわからないほどになると容易だということになる。そうなると構成員であることの証明が必要になる。巨大組織は昔もあったが、データがアナログだと物理的に証明のためのものを携帯することが困難なので個人の良心に依存せざるを得なかった。また、構成員間のコミュニケーションが今に比べれば濃いというようなこともあったかもしれない。しかし、デジタル化電子化が進展して本人確認に必要な情報を磁気ストリップやICチップに格納して携帯できるようになると個人の良心というような不確かなものに頼らずとも機械的に判断できるようになった、ということかもしれない。
昔、「三億円事件」というものがあった。東芝府中工場の職員のボーナス、約3億円を輸送中の車が白バイ警官のような姿をした者に奪われ、犯人が見つからないままに時効を迎えた事件である。この事件が発生したのは1968年12月10日である。当時、会社員の給与や賞与は現金で支給されていた。この事件の3億円はジュラルミンのケースに収納されていた。当時、給料日や賞与支給日には市中を現金を積んだ車が往来していたのである。現金というのは持っている人が所有権を主張できる。「私」専用の一万円札というものはなく、一万円札を持っている人が「これは私の一万円です」といえば、それはその人のものということだ。3億円を奪った人が「これは私の3億円です」といえば、それはたとえ東芝社員のボーナスのために輸送途上にあったものでも、奪った人のものである。紙幣には製造番号が一枚毎に記載されているので新札であればある程度の追跡は可能であるというようなことは、ここではひとまず置いておく。このような事件が起これば、当然にその対策が打たれる。しかし、現金が有価物として市中を流通する、という根幹を変えないことには現金の窃盗や強奪、偽造のような犯罪はなくならない。現に「三億円事件」のような歴史に名を残すものでなくても窃盗、詐欺、強盗、横領といった事件はその後もいくらでもあるはずだ。
時代は下って1980年代。私が新入社員の頃、勤め先で「おつかいさん」と呼ばれる人たちの手伝いをしたことがある。取引先との資金決済で現金や有価証券の物理的な授受を行うのである。このときの現金は特殊な小切手が使われていたので、「三億円事件」のような心配はあまりなかったが、株券や債券には似たようなリスクがあった。しかし、小切手という形態であれば紛失ということは起こりうるのである。実際にそういう事故はあった。300億円の小切手が紛失したが、後日、机と机の隙間から落ちていたものが発見されるというような、今から思えば牧歌的な事例を知っている。
やはり新入社員の頃、勤め先のボーナス支給日に社員のふりをして昼休みにオフィスに入り込み、椅子の背にかけてあった背広のポケットを物色して回り、首尾良くいくばくかの小切手(当時、私の職場では給料は現金、ボーナスは小切手で支払われていた)を手にしたところで、昼休みから戻ってきた社員に見つかり、逃げ口を失って会議室に篭城した挙げ句に駆けつけた警官に逮捕された人がいた。
今はどうなのだろう。現金の授受は金融機関の間でのデータの遣り取りだけで済むことが多いのではないだろうか。日本は諸外国に比べれば現金決済の割合が大きいらしいが、それでも給与や賞与は銀行振込だろうし、高額の買い物はクレジットカードを利用し、クレジットよりも高額の買い物は銀行振込なのではなかろうか。モノの移動にしても、もちろん小売店の店頭での受け渡しは多いだろうが、消費税増税前の駆け込みで宅配便網がパンク状態に陥っているのを見れば、対面に依らないモノの移動も増えているということだろう。モノのほうは大量生産の工業製品ばかりになり、カネは口座間での数字の移動だけになり、人と人とをつなぐ媒介としてのモノやカネの意味合いが薄くなっている、ということではないだろうか。モノやカネの流通量は増える一方だ。それが市場経済の原理というものだから。しかし、モノが象徴するものの重さや密度、それを作ったり売ったり消費したりする人の重みや中味が空疎になっているということではないだろうか。もしモノやカネやヒトが密度の高い内実を持つのであれば、それを複製するのは容易なことではないはずだ。世の中がデジタル化電子化の方向に展開しているということは、その世の中を構成している「私」というものが銀行口座を開設したりクレジットカードを申し込むのに必要な程度の情報によって構成されているに過ぎない存在だ、というだけのことではないだろうか。
ヒトは生まれて、必ず死ぬ。幻のようなものだ。それが何事かを生み、それを消費する。幻が生み出すものも、消費するものも、幻だろう。表面的にはバタバタと賑やかなことが展開している世界だが、その主体は名前と住所と生年月日程度のデータの塊でしかない。世にあるセキュリティシステムというものが何を如何なる目的のもとに守るのか、ということを突き詰めれば、そこには何も無いのではないか。