昨日、それまで広く使われていたコンピューターの或るOSのサポートが終了した。
パソコンは稼働できても、そこで遣り取りするものが思うように行き来できなくなる。パソコンというのは結局のところは通信端末なので、端末だけが電気的に作動してもコンテンツが伴わなければただの箱だ。パソコンだけではなく、様々な形態のコンピュータが身の回りのあらゆる機器に搭載されている。鉄道車両は昔はドライバー1本で多少の故障や不具合に対応できたというが、今は不具合が生じれば車庫まで運ばないとどうにもならないという。近頃は首都圏の鉄道網が定時運行されないことが常態化している感を受けるが、その要因の一つに車両や運行システムの電子化の進展というものがあるのではないだろうか。自動車の整備の様子も変わった。油にまみれながら工具を駆使して修理や調整をするというのは昔のことで、今は専用機器がないと修理ができないものばかりになりつつある。家庭電化製品も同様だ。故障に対する対応は修理ではなく交換ということが増えているのではないか。修理にしても基板交換のような実体としては交換と変わらない対応が殆どだろう。
具合が悪くなれば再起動だの交換だのと、不具合の根本が何であるかということに対する関心が薄れていくと、人の考え方も自然に変わっていくのではないだろうか。そもそも誰が何の意図で何を欲しているのか、というそもそもが問われなくなり、表面を取り繕うだけの世の中になりはしないだろうか。表面的に物事が進めばよいということにのみ注目する結果、モノではなく使う側の人間のほうを交換するようなことになるのではないか。尤も、既に雇用がそういうことになっているのだが。