近所を流れる野川の川縁を散歩した。まず下流へ向かって歩く。川の西側、堤の内側を歩いていたので、小田急線の橋を過ぎたところで行き止まりになってしまった。川は続いているのだが支流との合流があり、堤の内側にあった獣道のような小径がそこで途絶えてしまったのである。そこで折り返して上流へ向い、京王線の橋をくぐって佐須町の都営住宅を過ぎたあたりで日が傾いてきたので、また折り返して住まいのある団地へ引き返した。
このところ週末毎にあちこちに出かけているので、住まいの近所で終日過ごすことがなかった。今のところに越して来てから一度もなかったかもしれない。野川の沿道には街路樹に桜が植えられている。桜の時期になるといつも思うことだが、こんなに桜があったのかと思うほど、街中桜だらけだ。日本の花なのだなと改めて思う。それで野川の桜だが、もう殆ど散っているが葉桜というには少し早いかもしれないというような塩梅だ。桜が散って俄然存在感を放っているのが菜花だ。川縁に水面を覆うように黄色い花が咲き乱れているところもある。香りも強く、少し前までの寒空が嘘のような世界が広がる。川には透明な水が流れ、そこを泳ぐ魚が見える。小田急線の橋のあたりまで下るとけっこうな大きさの鯉がいる。魚がいれば鳥も当然にいる。鷺や鴨は当たり前で、時折カワセミの姿も見える。カワセミを間近で見ると、やはり少しは感動する。
陽気が良い所為もあるのだろうが、川縁や川岸はジョギングや散歩の人たちが適度な頻度で往来し、地元でのんびり過ごしている感じがあって良い。行楽地や繁華街ではなく住まいの周囲で休日を楽しむというのが、なんとなく豊かなことのように感じられるのである。
それにしても、川の周囲の住宅地は比較的築浅の建売が目立つ。かねがね思っていることなのだが、東京のような人口密集地域では土地の所有の仕方に制限を設けたほうがよいのではないだろうか。最低限の広さを設け、そこに建てる家屋は隣地との境界から最低2メートルは離さないといけない、とか、家屋の高さは敷地が面している道路の幅に対して倍を超えてはいけない、というような規制である。戸建と言いながら限りなく長屋に近いような家では防災上問題があるのではないだろうか。勿論、防災を考えて作られた様々な法規制に則ってこれらの建築物が存在しているのだが、地面を埋め尽くすような家並に、どこか心寒いものを感じてしまう。自宅というのは自分の居場所であり、自分が最も寛ぐことのできるはずの場であろう。わずかばかりの敷地を囲って、そこに目一杯の小屋を建て、セキュリティシステムなんかを取り付けて自分の城のようなつもりで暮らしている人も少なくないだろう。そんなところに暮らして心が和むものなのだろうか。そんな暮らし方を幸せと感じる感性というのはどれほどのものなのだろう。他人の暮らしについてとやかく言うつもりはないが、そいう近代的自我に執着した見るからにセコいものが氾濫している風景を消し去ってしまいたい。かつて自分もそういう家で暮らしていたので、なおさらそう思うのかもしれない。