佐世保の事件の加害者の父親である徳勝仁は昭和36年生まれ、昨日亡くなった理研の笹井芳樹氏は昭和37年生まれだ。片や、弁護士であり、国体選手であり、地元では所謂「名士」である。片や世界的に名を知られた医学者であり、私のような門外漢には想像もつかないような画期的な研究成果を数多く残している、らしい。どちらも、本人の身近な人あるいは人たちのことで社会から大きな批判を受ける立場になった。事件そのものよりも、同じ世代の人間として考えさせられるものがある。
生きるということは好むと好まざるとにかかわらず他者との関係を蓄積させていくことだ。その関係性は本人の社会的地位や活動領域によって疎密の程度が変化する。密になれば当然に本人にはどうすることもできないところも出てくるだろうし、本人の意図とは反したものが出現することも増えてくるだろう。しかし、世間はそういうものを本人と同一視するものだ。殊に本人にとって不都合なものほど無闇に大きく取り上げられるものである。人は本来的に自分の存在を肯定したいのである。他人を否定することが自己の肯定と表裏一体に思われる状況というのは少なくないのだろう。たとえその相手を知らなくとも、誰かを批判することで自分が一端の存在だと思いたい心理は程度の差はあれ誰にでもあるのかも知れない。マスメディアや世間の噂が所謂スキャンダルを語るときの語り口は情緒的で悪意に満ちているのは、そうすることで営業上の効果が期待できるからだ。なぜ期待できるかといえば、誰かを批判する以外に己の存在を確認する術を持たない大衆市場が確かにあるからだ。それで、徳勝氏と笹井氏だが、誰もが真似のできない立派な経歴を持ち、ちょうどそういう悪意の対象になりやすい存在であったのではないだろうか。
本人たちと面識がないので軽々なことは言えないのだが、同世代の人間としてなんとなく想像が働くのである。社会に出て30年前後を経て、それなりの実績を残して地位を築き、大詰めの一歩を踏み出そうというところだったのではないか。本人にそういう意識があったかどうかは別として、流れとしては50歳前後というのは社会人としては一番力のある時期だろう。ただ一方で、そこに至る間に残してきた不具合や不都合の処理しきれていないものもそれなりに蓄積されている。その不具合に対する認識と処置を誤ると命取りになる。素行に問題がある子供を留学させてしまうというのはよくある話だし、人が最も得意とするところで取り返しのつかない失敗を犯すのもよくあることだ。自分に近いと認識しているもの、自分が得意だと意識していることに対しては、往々にしてわかったつもりになりがちだ。わかったつもりになると、そこから先への思考が停止してしまう。成功体験の強い人ほどその罠に陥りやすいのではないだろうか。