『モオツァルト・無常という事』新潮文庫
何も彼も余り沢山なものを持ち過ぎたと気が付く人も、はじめから持っていなかったものには気が付かぬかもしれない。(p.21 「モオツァルト」)
美は人を沈黙させるとはよく言われる事だが、この事を徹底して考えている人は、意外に少ないものである。優れた芸術作品は、必ず言うに言われぬ或るものを表現していて、これに対しては学問上の言語も、実生活上の言語も為す処を知らず、僕等は止むなく口を噤むのであるが、一方、この沈黙は空虚ではなく感動に充ちているから、何かを語ろうとする衝動を抑え難く、而も、口を開けば嘘になるという意識を眠らせてはならぬ。… 美というものは、現実にある一つの抗し難い力であって、妙な言い方をする様だが、普通一般に考えられているよりも実は遥かに美しくもなく愉快でもないのである。(p.p.21-22 「モオツァルト」)
才能がある御蔭で仕事が楽なのは凡才に限るのである。(p.25 「モオツァルト」)
天才は寧ろ努力を発明する。凡才が容易と見る処に、何故、天才は難問を見るという事が屢々起こるのか。詮ずるところ、強い精神は、容易な事を嫌うからだという事になろう。(p.25 「モオツァルト」)
抵抗物のないところに創造という行為はない。これが、芸術に於ける形式の必然性の意味でもある。(p.26 「モオツァルト」)
人間は、皆それぞれのラプトゥスを持っていると簡単明瞭に考えているだけである。要するに数の問題だ。気違いと言われない為には、同類をふやせばよいだろう。(p.30 「モオツァルト」)
誰でも自分の眼を通してしか人生を見やしない。自分を一ぺんも疑ったり侮蔑したりした事のない人に、どうして人生を疑ったり侮蔑したりする事が出来ただろうか。(p.48 「モオツァルト」)
世阿弥が美というものをどういう風に考えたかを思い、其処に何んの疑わしいものがない事を確かめた。「物数を極めて、工夫を尽くして後、花の失せぬところをば知るべし」。美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。(p.p.77-78 「当麻」)
解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ。(p.85 「無常という事」)
「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出来すのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解った例しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」… 思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕等を一種の動物である事から救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一種の動物に止まるのは、頭を記憶で一杯にしているので、心を虚しくして思い出すことが出来ないからではあるまいか。(p.86 「無常という事」)
現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである。(p.87 「無常という事」)
秀歌の生まれるのは、結局、自然とか歴史とかという僕等とは比較を絶した巨匠等との深い定かならぬ「えにし」による。(p.128 「実朝」)
本当によく自覚された孤独とは、世間との、他人との、自分以外の凡てとの、一種の微妙な平衡運動の如きものであろうと思われるが、聖徳太子にとっては、任那問題も、隋との外交も寺院建立等の文化政策も、そういう気味合いのものではなかったろうか、そして晩年に至り、思想が全く彼を夢殿に閉じ込めて了ったのではなかろうかと推察される。(p.157 「蘇我馬子の墓」)
画は、自分の志でないと言いたければ、言わせて置くがよいが、志などから嘗て何かが生まれた例しはない。屏風の註文がなかったら、鉄斎は自分に何が出来たかわからなかった筈である。(p.173 「鉄斎II」)
審美的経験には、何か礼拝的な性質があると言ったが、美術好きは皆偶像崇拝家だと言って差し支えない。凡ての原始宗教は、偶像崇拝で始まったが、凡ての大宗教は、これを否定する智慧から出発した様である。(p.210 「偶像崇拝」)
頭脳は、勝手な取捨選択をやる、用もない価値の高下を附ける。みんな言葉の世界の出来事だ、眼には、それぞれ愛すべきあらゆる物があるだけだ、何一つ棄てる理由がない。(p.216 「偶像崇拝」)
絵を見る楽しみとは、違ったヴィジョンを通じて、同じ物へ導かれるその楽しみではあるまいか。(p.217 「偶像崇拝」)
絵を見るとは、解っても解らなくても一向平気な一種の退屈に堪える練習である。練習して勝負に勝つのでもなければ、快楽を得るのでもない。理解する事とは全く別種な認識を得る練習だ。現代日本という文化国家は、文化を談じ乍ら、こういう寡黙な認識を全く侮蔑している。そしてそれに気附いていない。(p.218 「偶像崇拝」)
美しい物を所有したいのは人情の常であり、所有という行為に様々の悪徳がまつわるのは人生の常である。(p.224 「骨董」)
純粋美とは譬喩である。鑑賞も一種の創作だから、一流の商売人には癖の強い人が多いのである。(p.233 「真贋」)
裸茶碗やメクリの画にホン物はあるが、箱や極めのないニセ物なぞないのである。(p.p.237-238 「真贋」)
所謂仏教美術の世界は、物知りの講釈で持っている世界で、ベークライトの茶托が、東山時代の珍品にもなれば、デパートの火箸が、東大寺の釘にもなる。頼朝公三歳のしゃりこうべが拠って立つ心理的根柢はなかなか深いのである。(p.240 「真贋」)
以上