熊本熊的日常

日常生活についての雑記

ものがたり

2014年08月23日 | Weblog

東京国立博物館で「台北 國立故宮博物院」を観てきた。本展開催に際してはぎりぎりまで波乱があったようだが、無事に白菜の展示も予定通りに行われ、こうして白菜後も大勢の見学客を集めているのはなによりである。

中国が古い歴史を持っているのは周知のことだが、その歴史の割に残されている文物は少ない。王朝が交代する度に旧王朝の権威を象徴するものが悉く破壊されるということを繰り返してきたからだという。そうしたなかで本展にも比較的多くのスペースが割かれている清王朝時代のもの、殊に乾隆帝のコレクションとされるものが印象的だった。焚書坑儒から文化大革命に至るまで破壊蕩尽が歴史の王道ではないかと見紛うほどの歴史のなかでは珍しく温故知新を地でいくような文化政策を採った時代である。尤も、破壊蕩尽も温故知新も目的は同じで、国家統治の権威付けのためである。いかに自分の権威が正統であるかということを誇示するか、ということに対し、従前の権威を象徴する文物を消滅させるか、過去の権威を象徴する文物を残らず自己のものに取り込むか、という方法論の違いでしかない。

権威の象徴という意味を帯びた文物は、権威の内実を表現していなければならない。具体的には完成度の高さである。その物を製作するのにどれほどの知識、技術、労働力、稀少で高価な資源・原材料などを使っているかということがわからなければならないのである。それによって見る者を圧倒するようなものでなければならない。作った人の個人的な技量技能が注目されるのはまずい。そういう技能を持った人を数多く抱えている朕があればこその文物なのである。だから、そうした文物には作者名は間違っても出てこない。中国の美術芸術に作り手の個人名が登場するのは比較的最近のことだ。

ゲージュツカと呼ばれる人が威張って作ったものには、そう思って見る所為か、どことなく嫌らしさが漂っている。見る自分に我があれば、当然に他人の我を煩く感じるということなのだろう。権力が作らせた文物は、確かに技巧の精緻精密に圧倒されるのだが、そこから先が無いように感じる。「へぇ、すごいねぇ。それで?」と思ってしまうのである。結局、自分と対象物との距離感なのだろう。自分と対象物が何がしかの世界を共有していると感じられなければ、感心はしても感動はしないような気がする。人とモノ、人と人との距離は千差万別だし、同じ相手であってもいつも同じ距離感があるわけではない。人を動かすことがいかに難しいかというのは、そうした個人の日常を俯瞰しただけでもよくわかる。

だからこそ、盛者必衰なのである。権威や権力は必ず見捨てられ、忘れ去られるのである。人やモノに本当に普遍的な力があるのなら、それを破壊しようなどと思う人は現れないだろうし、なによりも世界はもっと平穏なはずだ。贅を尽くし、様々な背景を背負った文物が博物館だの美術館だのという特別堅牢な場所にケースのなかに収められて恭しく展示され、それを金を払って多くの人が見物にやってくるという事実は、人の世が本来的に不穏であることの証左なのではないか。