熊本熊的日常

日常生活についての雑記

一針入魂

2014年10月11日 | Weblog

日本民藝館でカンタと刺子の展覧会と岩立フォークテキスタイルミュージアムの岩立広子館長による講演会を聴いてきた。刺子は静かな流行らしく、少し前のことだが神楽坂でギャラリーを営んでいる人からこぎん刺しのワークショップを企画したら参加者がずいぶん集まったというようなことを聞いた。刺子というのは意匠の面白さももちろんあるが、刺子を施すことによって布が丈夫になったり汗をかいてもべとつかなくなったりといった機能向上の効果もあって、おそらく昔の家では家事の合間あるいは家事そのものとして刺子に精を出したのではないだろうか。戦争の時は「千人針」といって実用を超えた用途に用いられたりもした。千人針などは針を入れること自体に何事かの力を感じたということなのだろう。何もないところからそうした発想が生まれるはずはなく、日常使いの刺子に程度の差こそあれ人々が意匠や機能を超えた何かを感じていたということだ。

さて、カンタだが、インド亜大陸の東の付け根に位置するベンガル地方で見られた刺子のことだそうだ。使い古しのサリーやドゥーテを4~5枚重ね、表面に模様や絵を刺繍したものである。今回の民藝館の展覧会では大小80点ほどが展示されている。意匠は作り手の身近なもののようだが、多いのは中央に蓮の花、四隅にペイズリーを配し、曼荼羅のような構図に仕上げたものである。ペイズリーは、名前こそスコットランドの地名だが、もともとはインド、イランに由来する模様で「ペイズリー」と名がついたのは産業革命期にスコットランドのPaisleyでこの模様の織物が量産されたことに由来する。カンタを特徴付けるのはこうした構図ではなく、モチーフとモチーフの間に刺繍されている地紋なのだそうだ。あと、モチーフはフリーハンドである。道具や機械を使って奇麗な形をつくるのではなく、あくまで手仕事であることも正統派カンタの特徴なのである。

カンタは家庭内での廃品再生のひとつで、家庭内での使用が原則だ。それを売ってどうこうしようというのではなく、嫁入り道具のひとつにするとか、子供が生まれたときにおくるみに使う、というような使われ方をする。売り物ではないので流通することがなく、それ故に蒐集は容易ではない。岩立さんの蒐集歴は40年だそうだが、一枚も手に入らなかった年もあるという。流通していないので、その歴史も定かではないのだが、作られていた時期は19世紀から20世紀初頭にかけての100年ほどでしかないというのも蒐集を困難にする要因になっている。近年、NGOなどがカンタの復興を図っているそうだが、おそらく産業振興として手仕事を利用するという発想だろう。動機がそもそもカンタの精神ではない。どれほど見栄えのするものであろうと、そういうものは岩立さんのような蒐集家にとってはカンタとは認め難いのではないだろうか。

人間の行為の動機によって同じような外見の結果でも全く違った存在になるものである。よく自利とか他利ということを耳にするが、生き物の欲望とか行動原理は結局のところは自利であろう。ただ、「自」の領域が同じではないのである。あらゆるものを貨幣価値で表現する世の中においては、そうした自の違いが消し去られる方向に物事が進む。貨幣価値で表現される社会においては一物一価が原則で、価格差があればそれを仲介することで差額を利益として享受しようという者が現れて価格差が無くなってしまうからだ。本来なら仲介者は価格差の由来を理解できなければならい。理解できる感性と知性がなければならない。世の中がのんびりしていた時代なら、そうした価格差の由来、すなわちそのモノの価値というものが今よりはしっかりと吟味されていたのではないだろうか。地球の裏側のことが瞬時に伝えられるような時代になると、価値の見極めなどしている余裕は無くなってしまう。外見とか表面的な機能だけを抄い取って存在の根源などには関心を払わなくなる。手間隙の意味、そこに込められた想い、などといったロマンチックなものは見向きもされなくなるのである。例えば人間の社会であれば、生き物としての人間の生活が不自由なく営むことのできる物理的な環境を最低限の費用で実現するということが、市場での裁定の結果として選択されることになる。結果として規格化されたモノに囲まれた生活が出現する。規格化された生活のなかで暮らす者も規格化された生き方を強いられることになる。あるいは自ら進んで自分の生活を規格化しようとするようになる。規格が文化や文明というものなのかもしれない。動機はどうあれ、結果としてそれを目指してきたのが今の人間の社会なのだから。規格に合わないものは「無駄」だの「余計」だのと社会から排除されることになる。しかし、機械のような存在であるならいざ知らず、感性も知性もある生き物なら、その存在の根源は規格で表現できないもので形作られているのではないか。つまり、文明の行き着くところはその根源を消滅させることにはならないのか。

例えばカンタを見て、100人が100人とも美しいとか素晴らしいとは思わないだろう。全員がダメ出しをするようでは存在できないが、一人でも欲しいと思う人がいればそれだけで存在価値があるはずだ。作り手の一針一針の想いを感じ取ることのできる人がいればそれだけで生まれた甲斐があるはずだ。しかし、今の世の中は100人のうち50人80人できれば100人の獲得を目指すように出来つつあるような気がする。100人全員が欲しいと思うようなものが存在するとしたら、そこにはもはや感性や知性は存在しない。