百年以上も住みなれた農家には、土に根が生えたような落ち着きがあり、四季折々の食物にも事を欠かない。そういうものは一朝一夕で育つはずがないことを、住んでみて私ははじめて実感した。(20頁 「鶴川日記」)
空襲がはげしくなると、東京では強制疎開がはじまり、鶴川村も目に見えて人口がふえた。せっかちな私どもが、一足先に東京から逃げ出した時、国賊呼ばわりをした人々が、今度は「先見の明」があるといって褒めた。その同じ人々が、戦争が終わって、世の中が落ち着くと、「こんな草深いところに、よく我慢していられる」とせせら笑った。近頃では、地所の値段が上がったので、また何かとうるさいことである。世の中とはそんなものだろう。(28頁 「鶴川日記」)
書が上手な方なので、後水尾天皇にしようか、三藐院にしようかなどと、しばらく考えた末、後水尾天皇流で「渡水復渡、水谷花還……」という詩を書いて下さった。あまり上手なため、だれの字でも自分のものにされたが、近衛文麿の書体というものを、私はついに知らずに終わった。近い将来に自殺されるとは、夢にも思わなかった時代で、春が来るたびに、その書を床の間にかけ、冥福を祈ることにしている。(37頁 「鶴川日記」)
長さんのおばさんは、やくざの娘であった。長さんは屋根屋で、家の屋根替えも彼にしてもらったが、おとなしい養子なので、おかみさんの前では頭があがらない。その屋根替えの時、おばさんは不思議なことをささやいた。
「つき合いというものは、はじめはだれでもうまく行くが、長くなると、きっとむつかしくなって来るものです。どうぞ末長くかわいがってやっておくんなさい」
まだ若かった私は、ただの挨拶だと思っていたが、その言葉が真実であることを、やがて知る時が来た。別に農村にかぎるわけではない。人間同士のつき合いというものは、お互いにむつかしくなった時、はじめてほんとうのつき合いがはじまるのではあるまいか。(39頁 「鶴川日記」)
先日テレビを見ていたら、落語家の円生が、こんなことをいっていた。芸人は年をとって、生ま生ましい色気を失った時、はじめて芸の上に、ほんとうの色気が出せるようになる。志ん生がそう、文楽もそうだったと。
だが、これは誰にでも通用するとは限るまい。若い時、名人上手ともてはやされた人が、年をとって、老いぼれてしまうこともあるのだし、ある人々は、若さにかじりついて、いたずらに精力を浪費する。生活と芸術の間に、密接なつながりがあるのは事実だが、その目に見えぬ糸をあやつることは誰にもできない。ただ神のみぞ知るである。(116−117頁 「ある日の梅原さん」)
まだそのころは若くて、絵のことなど何も知らない私に、先生は真面目に意見を問われ、自分で描いたものは、自分にはわからないものだといわれた。あれほど自信の強い梅原さんにして、なおこの言葉があるのは、私にとっては不思議でもあり、ありがたいことに思われた。(122頁 「ある日の梅原さん」)
模倣することはやさしい。外国語を喋ることもできよう。国際的というのが現代の合言葉らしいが、日本人であることを忘れて、どこの世界で通用するというのか。(123頁 「ある日の梅原さん」)
熊谷先生は若いころの一時期、故郷へ帰って「日傭」という労働に従事されていた。「日傭」というのは文字どおり「日やとい」のことで、山奥から材木を伐り出して、木曾川へ落とす作業をいう。川幅がせまい上、急流なので、筏は組めず、材木を一本ずつ谷へ落とすのだが、人間はその上に乗って操作する。したがって、非常に危険な仕事であるが、檜は素直で扱いやすいが、欅は根が重いので、下手をすると、水の中で真っ直ぐに立ってしまう。立ってしまえば、もう元へは戻らず、そのまま水中に没する。「木曾川の上流には、どれほど欅が沈んでいるかわからない」そう先生はいわれるが、お盆の上下を気になさるのも、そういう辛い体験があったからだろう。私は前に黒田さんから聞いた話を思い出した。「檜は素直なので、仕事がしやすいが、欅は頑固でやりにくい。だから、面白いものが出来るのだ」と。生まれつきの性質というものはどこまでもついて廻るようである。みかけは穏やかでも、極めて個性的な風格と、頑強な体躯にめぐまれた熊谷先生も、木にたとえればさしずめ欅であろう。欅の中でも「神代欅」と称して、何百年も水中に埋没している間に、見事な木理と白さびの味を得た名木といえよう。(133−134頁 「熊谷守一先生を訪ねて」)
その対談の中で、先生は昔から音楽が好きで、最近ヴァイオリンを買った話をされた。買ってはみたものの、どうしてもいい音が出ない。「できないことは、面白いですね」と、ほんとに面白そうに笑いながらいわれた。できないことの面白さ——それは私が生まれてはじめて耳にする言葉であった。(135頁 「熊谷守一先生を訪ねて」)
知識はむろんあればあるほどいい。が、物を見る時は、すべてを忘れることが肝要なのだ、そして、自分を捨て去った時、はじめて物のほうから歩みよって、その美しさの秘密を明かしてくれるのだ、と。(147頁 「芹沢さんの蒐集」)
日本においては、美と謙虚は常に同居していた。最高の職人は、自分をひけらかしたりはしないし、特に変わった形や色彩を発明して、「芸術家」になろうとも思ってはいない。くり返しの仕事というものは、たとえばおいしいパンを焼くのと同じことであり、同じ作品をたくさん造るというのは、けっして退屈なくり返しではない。世の中に、まったく同じものは二つとない。あるはずはないのである。そこに無上の楽しみが秘められていることを、リーチはくり返し説いているのだが、はたして日本の陶工は、今日でも彼がいうように「謙虚」であろうか。仕事のなかに生き生きとした喜びを見出しているだろうか。(156−157頁 「パーナード・リーチの芸術」)
作品はいわば日常生活の結果に他ならず、極端なことをいえば、荒川さんの一部でしかない。別の言葉でいえば、芸術至上主義者ではなく、人生を楽しむことを知っている生活人なのだ。「造ろうとせずに、無意識にできたものが美しい」といわれるのは、自然の前にいかに人間が小さな存在であるか、身にしみていられるからであろう。いい古された言葉だが、つき合っていると私は、「一期一会」という詞を思い出す。何も大げさなことではない、それはたとえば一生に一度見るか見られない花の便りであったり、いろり端で手ずから焼いて下さる田楽の味だったりするが、淡々とした仕草の中に心がこもっており、一つ一つの場面がたのしい憶い出としてよみがえるのである。(163−164頁 「牟田洞人の生活と人間」)